山中比叡平「歴史散歩」<14> 田中伸
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閼伽井
園城寺金堂、横にある閼伽井(あかい)と呼ばれている湧き水で、天智天皇 天武天皇 持統天皇の産湯に使ったことから、御井寺(みいでら)から智証大師が三井寺と名を改めました。

閼伽井屋は桃山時代1600年に建てられた重要文化財です。建屋上部に左甚五郎が彫った龍があります。この龍は琵琶湖にたびたび飛んで行っては人々を、驚かしたので、飛ばぬように眼に釘が打ってあります。


園城寺
大友皇子(弘文天皇)の子、大友与多王が父の菩提をとむらうために創建したと伝わっています。大友氏の氏寺が859から877年頃に延暦寺の円珍に寄進され。円珍はこの寺を天台宗別院 園城寺として再興しました。

円珍(智証大師)の死後、延暦寺では座主継承問題などから円珍(慈覚大師)門徒と円珍門徒に分裂し、993年に円珍門徒は智証大師像を持って延暦寺を下りて、園城寺にはいりました。これ以降、中世に至るまで山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の対立抗争(焼き討ち50回以上)が続くことになりました。


等正寺
1465年 大谷本廟(親鸞の墓所)を延暦寺の僧徒に焼き討ちされるや、蓮如上人は親鸞の御真影を持って近江へと逃れました。御真影を三井寺に預け、蓮如上人は越前諸国へと15年の布教の旅に出かけました。御真影を建設された山科本願寺にお迎えすることになって、三井寺に御真影を返して欲しいと言ったが、三井寺は人間の生首を二つ持ってくれば返そうと、無理難題を言ってきました。

堅田の源左衛門は我が首を捧げましょうと蓮如上人に申し出ました。父源左衛門はこの事を息子の源兵衛に話すと、源兵衛が、私の首を討ってくれと強くいいました。我が子の首を討ち三井寺に持参、この白髪首も討ってくれと迫りました。親子の殉教心に三井寺の僧も感心して、御真影を返還することにしました。

等正寺の本堂にミイラ化した源兵衛といわれている首が安置されている。また境内に佐知s pocketという洋菓子店があります。長等公園より西へ300m


小関越 道標
小関町3−14に立っている。江戸時代中期の小関越の道標です。小関越はここより小関峠を越えて、藤尾地区横木まで続く道。東海道を大関越と呼ばれていたのに対して小関越と名付けられました。北国街道(北陸)から京都への近道として利用された。

三井寺、西国33ヶ所観音巡礼第14番札所から京都市今熊野観音寺第15番札所への巡礼道でもありました。


慶祚阿闍梨入定窟(けいそあじゃ...
長等公園の北の入り口あたりに慶祚阿闍梨入定窟と呼ばれている、大石で組まれた石窟があります。慶祚は平安時代の終わり頃の僧侶で園城寺、五別所のうちの尾蔵寺と微妙寺を開いたことで知られている。

1018年慶祚は73歳でこの世を去るが。即身成仏を 祈って石窟に入定し、即身仏となったといわれている。

入定窟は古墳の石を利用したもので、石窟の背後に慶祚の墓といわれる無縫塔がたっている。


長等公園
全国で明治30年から始まった大都市の公園ブームのなかでも、きわめて早く明治35年に開設が認可されて、41年に大津市、最初の都市公園として開園した。広さは9.5ha。園内に900本の桜が花開く桜の名所でもあります。

滝のあるせせらぎがあり、野鳥観察ステージもある。


大津城
1586年豊臣秀吉が浅野長吉に命じて築城させた水城である。 天守は井伊直政の彦根城に移築された。本丸は浜大津付近に、ありました。

1600年、城主京極高次は西軍大谷吉継の北陸方面軍に加わった。越前に差し掛かった処で、徳川家康に寝返り海津より船で大津城に戻った。井伊直政に「籠城して西軍を抑える」と伝えた。

この事は大阪城の淀君に伝わり、大阪城に居た初(妹で高次の嫁)に降伏するように説得に遣わしたが、高次はこれを拒否した。9月7日、毛利元康軍一万五千これに対して高次は三千で籠城戦は始まった。

高次軍は再度の夜襲をかけたが、堀は埋められ、長等山から の砲撃で天守も損傷を受けた。高次自身も槍で2ヶ所の傷を負い二の丸、三の丸と続けて落ちてしまいました。

北政所からの説得で9月14日夜に降伏した。 9月15日の朝に天下分け目の関ヶ原の戦いが始まったが 毛利元康軍一万五千は合戦に間に合わず、徳川家康の勝利に貢献することになった。

園城寺で剃髪し高野山にいた高次を家康は召し出し、若狭小浜城6万5千石と高島7200石を与えた。


比良八講(八荒)荒れじまい
昔、ひとりの若い修行僧が、草津へ托鉢行脚に出かけた。滞在した家の「おいさ」という娘に見初められました。しかし、僧は修行のため帰らなければならず、僧への思いを断ち切れない娘に「修行をしている堅田の浮御堂まで百日間通うことができたら、夫婦になろう」と言い残して去っていきました。

 娘は、その夜から対岸の浮御堂の灯明を目印に、たらい船を漕いで九十九夜通い続けました。そして、いよいよ百日目の夜、修行の身で嫁はもらえない僧は、満願を阻止するため浮御堂の灯明を消してしまいました。

目印を見失ったたらい船は湖をさまよい、折から吹いてきた突風で転覆し、娘は湖の底深く沈んでしまいました。毎年この時季、比良の山から吹きおろす強風は、娘の無念によるものといわれています。

また、琵琶湖の固有種ハゼ科魚類の「イサザ」(地方名:イサダ)は、昼間は水深30メートル以上の湖底で休み、夜になると餌を取るために水面近くまで浮上することから、「おいさ」の化身といわれています。

比良八講は水難者供養と湖上の安全を祈願する3月26日に行なわれる行事で、長等3丁目3−35の本福寺に集合して開始されます。ぼんぼりを持った稚児娘が行列に参加します。灯明を目指して、たらい船を漕ぎ出した娘を慰める願いが込められています。 悲恋の乙女の無念を湖上法要にて慰め、稚児娘さんに改めて近江舞子に上陸していただき、 満願成就していただくという思いが込められています。

平成9年に比良駅で貨物列車が比良おろし(最大風速57m)で横転している。





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