山中比叡平「歴史散歩」<20> 田中伸
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滋賀院門跡
妙行院より南へ200mに在る滋賀院門跡です。

この寺は 1615年に徳川家康に仕え、黒衣の宰相と呼ばれた南光坊 天海が後陽成天皇から下賜された、京都北白川にあった 法勝寺を現在の地に移し、のち後水尾天皇から滋賀院の号を 賜わりました。

江戸時代末まで天台座主となった皇族代々の 居所であったため高い格式を誇った。

坂本には穴太積みの石垣 が見事な里坊が多く残っているが、中でも滋賀院門跡は ひときわ背の高い石垣と白壁に囲まれた、延暦寺の本坊らし い堂々とした外構えを見せています。

滋賀院御殿と呼ばれた 長大な建物は1878年に火災により焼失して、比叡山 無動谷法曼院の建物3棟が移築されました。


妙行院 頬焼地蔵
幸塚より道を挟んで南隣の妙行院にある木造地蔵(重文)は 昔、横川の般若谷にあった地蔵で、鎌倉時代の「宇治拾遺 物語」や「元亨釈書」に書かれている。

昔、賀能という猟師 がいた。ある日、般若谷でにわか雨にあい、近くに在った お堂で雨宿りをすることにしました。荒れて雨漏りが激しく 本尊の地蔵尊も雨ざらしとなっていました。気の毒に思った 賀能は、かぶっていた笠を地蔵尊にかぶせてやりました。

歳月は流れ、年老いた賀能は病気で亡くなりました。殺生を 業としていた為に地獄へ落ちて、猛火にその身を焼かれる ことになった。

その時一人の僧侶が現れて、右手をさし出して救ってくれた その僧侶は右側の腕、肩、右頬、足まで黒焦げとなっていた。 その僧侶が「私は般若谷の地蔵である、かってお前は雨ざらし の時に笠をはぶせて来れた。その志に報いるために、お前を 助けた」といって消えていった。

そして、気がつくと賀能は生き返っていました。急いで 般若谷のお堂へ礼拝に行くとお地蔵様は、右半身が焼け焦げ て、地獄で見たお姿とそっくりだった。


幸塚
大文字屋地蔵より西に200m、この幸塚は三津首広野の 胞衣(最澄の胎盤)が埋まっているといわれています。


大文字屋地蔵
生源寺より南西に200mある大文字屋地蔵

この地蔵は 比叡山中学校の敷地内にあった寺が、火事で焼失し 大文字屋の、なん代か前の主人が、廃寺となった跡から 立派な石の地蔵を見つけて、お堂を建てて、お祀りしました。 延命地蔵と呼ばれている。


生源寺
市殿神社の隣に生源寺があります。ここは最澄の生誕の地と いわれ、山門を入り右側奥に最澄が産湯に使ったといわれて いる井戸が残されている。

最澄は両親報恩のために800年頃に東南寺と共に生源寺を 創建したといわれている。

また、信長焼き討ちの際に、信長軍を見た住民が異変を知ら せるために鐘を何度も強く打ったために鐘にヒビが入り 変わった音が鳴るようになりました。現在この鐘は「破鐘」 といわれて、JR坂本駅前の坂本石積みの郷公園にあります。


市殿神社
百枝天満宮より南へ200mにある市殿神社の祭神は最澄の 母、藤原妙徳が祀られている。

藤原藤子は山城の国、山ノ内 生まれ、父は藤原鷲取、母は宇気合田早良女。祖先は 藤原鎌足とされています。

坂本より延暦寺に行く参道本坂を30分登った、ところに 花摘堂跡の碑があります。 ここは最澄の母が大師に会いに来るが、これより先は 女人禁制で進めず、大師はここまで降りて来られ母と 会っていました。

後に智証大師が悲母を偲んで三宮を 建てました。その後4月8日の釈迦降誕会だけ、女性が花を 供えてお参りするようになり花摘堂と呼ばれました。

花摘堂は崩壊して、市殿神社として現在の地にあります。


百枝天満宮
日吉茶園より北へ400mにある。百枝天満宮(ももえてん まんぐう)、百枝は最澄の父親である。

後漢孝献帝の末裔で 200年から300年頃に渡来し応神天皇に近江国滋賀郡の 地と三津首(みつのおびと)の名を賜りました。

この名の三津首とは三津浜(今津、戸津、志津)から坂本 までの「首」(かばね、土地の管理者、今だと町長)でした。

父の三津首百枝は敬虔な仏教徒であったが子がなかった そこで、八王子山の西、大宮川近くの山中に草庵を結び、 男子出生を仏に願った、かいあって767年に三津首広野( 最澄)が生まれました。

これらに対して正倉院文書には最澄の戸籍は坂本となって いない。滋賀郡古市郷(膳所の南)三津首淨足(きよたり) の家族となっていました。

百枝天満宮は左の社に百枝が祀られ、右の社は菅原道真が 祀られています。


日吉茶園
御田神社より西に50m行くと日吉茶園がある。805年に 最澄、空海が茶の種を中国より持ち帰った。最澄は帰国後に 比叡山延暦寺を建て、茶の種は坂本山麓に植えました。

日本書紀には志賀越にあった、梵釈寺にて僧正「永忠」が 嵯峨天皇に茶を煎じて飲ませた、日本で初めて喫茶のこと が書かれている。

貴族、僧侶等に茶は広まって行ったが 遣唐使の廃止ともなって、茶は次第に衰退していった。

1191年、栄西は茶の種を持ち帰り、筑前、背振山に 植えました。

博多の聖徳寺、筑後の千光寺に植え、これが 茶の源流と考えられ栄西を「茶祖」と呼ぶ、栄西は明恵上人 に茶の種を贈り、明恵は京都栂尾高山寺に(世界遺産)植え、 明恵が宇治に移植したものが、今の宇治茶です。


御田神社 綱引き
石占井神社より西に300mにある御田神社は1月15日 に「綱引き」という神事がおこなわれる。

氏子がワラを持って神社に集まり、このワラで「縄縫い」と と呼ばれる、長さ12間(22m』の大蛇を氏子、皆で作り ます。大蛇の頭を西方に向けて神社前の道路に引き摺り出し ます。

氏子は東西に分かれて、3回、綱引きが行われて 3回目の綱引きで勝敗を決める。東が勝てば豊作、 西が勝てば不作といって、その年の豊凶を占う


石占井神社
聖衆来迎寺から西に700m、坂本3丁目16にある 石占井神社(いしらいじんじゃ)です。

大津宮があった 7世紀後半、坂本八条には大きな寺院があったようです。 この神社の石垣の一部に礎石が残り、軒丸瓦も出土 しました。また近くに郡園、倉園両神社の名称から 滋賀郡衙(役所)とも考えられています。





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