大津館
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昭和の初め外貨を獲得することが国策とされていたため
全国の県や市、町で国際観光ホテル建設が進められました。
滋賀県でも県、市と交通関係各社が共同でホテル建設を
進め、昭和9年10月27日に琵琶湖ホテルが開業。
大蔵省の低金利融資で県が建物を建設し、経営を民間会社
にまかせる形式をとりました。
昭和天皇 ヘレン・ケラー ジョン・ウェイン、アベベ
川端康成 志賀直哉など多くの著名人が宿泊しています。
平成10年にホテル移転にともない、取り壊しが決まり
ましたが、多くの大津市民が保存を望む声で大津市が
買収、現在は大津館として市民、観光客に利用されています。
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長尾遺跡
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崇福寺(668年)建立された時期に、在ったと思われる、青銅の鋳造工場と瓦窯の複合施設(年代不明)です。
溶けかかった、銅銭 梵鐘の乳(梵鐘に付いている突起物)梵鐘鋳型の一部 青銅の板が発見された事と崇福寺、梵釈寺の境内にあることから、これらの寺の梵鐘、青銅品、瓦を作っていたと思います。
日本で一番古い梵鐘は妙心寺(698年)、崇福寺の梵鐘が現在あれば、1番、古かったのに残念です。
日本の梵鐘が90%以上無くなる時期がありました。
第2次世界大戦時の金属類回収令です。嫌な時代ですね。
百穴古墳、南に100m
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志賀八幡宮 秋祭
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9月17日 秋祭が行われる。竹鉾と言う長さ6m、
先端をひごで飾った3本の竹鉾を本殿、横へ立てて
奉納されます。
その後、神事 お祓いが行われ
2基の神輿と11基の子供神輿が町内を行幸します。
17日、台風が心配ですね。
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志賀八幡宮
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千体地蔵堂より東に350m、志賀八幡宮があります。
天武天皇、創建と伝えられていますが、信長の比叡山
焼き討ちで、社殿、古文書が焼失して、これを証明する
ことが不可能になりました。
再建(年代不明)されたが、昭和19年5月7日、隣家
からの延焼により倉庫が焼失、古文書、社宝が燃え
またも証明、不可能になりました。
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志賀越の千体地蔵堂
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駒札が立つ茶園より東に50m 年代不明の千体地蔵堂
初めてお堂の中をのぞいてみました。
三十三間堂の千体千手観音菩薩を見た時の感動の一段
落ち位、小さなお地蔵様が、いがいにも大きい
(10cm)お顔、衣の色が微妙にちがいます。
いいですね、心休まり、手を合わせました。
家に帰り、写真を眺め千体あるか、かぞえました。
985体でした。(お地蔵様、ごめんなさい 合掌)
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日本最初の喫茶(梵釈寺)
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百穴古墳より東に50m右手に駒札が立ててある小さな
茶畑。平安時代815年に唐より永忠と言う僧侶がお茶
を持ち帰り、嵯峨天皇が志賀越で唐崎まで行幸のさいに
梵釈寺で天皇にお茶を奉じていると、日本後記に書かれ
た初めての喫茶だそうです。
この頃のお茶はどんなお茶か調べると、餅茶(へいちゃ)
蒸した茶葉を乾燥して、餅のように固めた物で、飲む時
は、火であぶって、砕いて粉にして煮出して、飲んでい
ました。
また、ネギや塩 はじかみ はっか なつめ ぐみ 橘皮
などをお好みで入れて飲んでいたようです。
美味しそうかな・・・
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百穴古墳群
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百穴古墳群の中でも入り口が狭くて、玄室の縦横各2.7m天井までの高さ3m、ドーム状の天井をもつ12号墳がオススメと聞き探しましたが、どれが12号墳かわかりませんでした。
1450年から1550年前の10m前後の古墳が64基、副葬品(ミニチア炊飯具セット、他に色々)玄室の形から
渡来人のお墓といわれています。
志賀の大仏より100m東へ
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三体地蔵
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崇福寺跡より金堂に向かって左側の階段を降りた所から
志賀峠に向かって300m程、歩いて左手にあります。
2メートルぐらいの岩に小さな地蔵菩薩3体彫られた
磨崖仏です。これも、道中の安全を見守っているので
しょうか。
山中にかかわらず、そおーと、お花が供えて
あるきもちが、志賀に石仏が多いのでしよう。
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志賀の大仏(おぼとけ)
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おぼとけは、大仏だろうが、「おとぼけさん」といいたくなるような表情で、近江を歩いていると、時々このようなものに出会えるのがたのしい。
ふっくらとした彫りが美しく、おつむの後ろに雑草が生えているのも、場所がら有がたい心地がする。(白洲正子『近江山河抄』)
今日のおぼとけは「怒っとけさん」といいたくなるような表情で、少し寂しげでした。
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志賀の大仏(おぼとけ)
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今日、百穴古墳に車を駐車して志賀の大仏を越え
左に行くと志賀越。道に通行止めのロープが張られて
いました。志賀峠付で崩落してるようです。
それと、残念ですが、志賀の大仏のお堂の柱が一本燃えて無くなっていました。不審火かそれとも不注意か、どちらにしても、全焼しなくて本当に良かった。
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