大津百艘船(おおつひゃくそうぶね)
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信長の死後、秀吉は琵琶湖の水運に着目していました。
1584年、大阪城に住み始めた秀吉は、政治、経済の
中心が京都から大坂に移りつつあるのを感じていました。
これまでどうりに坂本から山中越えを使うよりも、大津
から逢坂越で大阪までのルートを考えていた。
その頃の大津は港としては大きくなかったので、坂本城を
廃城にし、坂本城主浅野長吉に命じて大津城を築城させた。
浅野長吉は船数も少ない大津に船を集めるために、堅田、
坂本、木浜の船持達に五ヶ条の定め書を示し、大津百艘船を
組織した船持仲間に対して、大津浦から出入りする荷物、
旅人の積み出しの独占権を与えた。
これらの事によって大津は港、宿場として発展して行きます。
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琵琶湖疏水
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琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路が琵琶湖疎水です。
明治18年から5年間、同41年から4年をかけて作られた、大工事で
京都の水不足が解消しただけではなく、毎日100隻以上の船が行き交う
水運路としても利用され、春には桜の名所として、多くの人で賑わいます。
明治に作られ、国の史跡になった疎水は、現在も京都市に水道水を供給
し続けています。
琵琶湖には大小あわせて460の川が流れ込んでいますが逆はたったの
2本だけ、一つは瀬田川もう一つが琵琶湖疏水なのです。
琵琶湖疏水から年間2億トンの湖水を得ている京都市は2億2千万円の
疎水感謝金として滋賀県に支払っています。滋賀県も山の植林、間伐、
林道整備など水源地となる、山の保護に使っています。
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大津絵の道
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1969年に廃線になった江若鉄道軌道跡を利用して造られた、500m程の大津絵の道、皇子が丘付近から浜大津まで、あちこちに大津絵が点在し、緑の多い雰囲気たっぷりの小径です。
大津絵ですが、江戸時代初期に東海道で最大級、大津宿の土産として、職人が客の目の前で注文に応じて、どろ絵の具で描き「安い、早い」が旅人に人気があった。
井原西鶴の「好色一代男」の中に越後寺泊の遊郭で屏風に貼ってある大津絵を見て、主人公が望郷にかられる一説が書かれている。この事から大津絵は浮世絵と同じく、日本全国に知れ渡っていた。
素朴で何となく笑える「へた、うま」の持ち味が好きです。
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長等神社
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三井寺町にある長等神社、かっては新宮社とよばれ円珍が860年に園城寺の守り神として祀られました。1054年に山の上から現在地に庶民参拝のために移転された。楼門は1905年に創建されたが、中世の様式を細部にわたって生かされている市指定文化財です。
境内には馬神神社がある。この神社は江戸寛永年間、馬の疫病が大流行し馬魔(ぎば)の仕業とのうわさが立ちました。「馬魔」とは、玉虫色の小さな馬にまたがり、風に乗って現れる緋の衣を着た魔女で、これを鎮めるために神社をたてました。
現在は、競馬関係者、乗馬、馬券必勝の参拝者が訪れているそうです。カタカナで書かれた札がかかっており、よく見ると、それは「○○号」と書かれ、馬の名前だということが分かります。これは、お社の裏にある馬霊社(ばれいしゃ)という小さなお堂に眠る馬達の名前で、馬霊社には、 馬達のたてがみと、蹄鉄が納められているのだそうです。鳥居の前にある灯篭もよく見ると馬小屋の形になっており、とても趣きがあります。
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大練寺
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三井寺町の大練寺に鎌倉時代初期の十六羅漢像図、十六幅は完存しないが十二幅が伝存している、国の重要文化財に指定されている。
大練寺境内にはかって練貫水(ねりぬきのみず)と呼ばれる名水があったが明治23年の疎水工事で井戸は枯れました。この水は天智天皇の御衣を練った(この水を利用して生糸を作って絹織物の御衣を作った)ことから、練貫となったと伝えられている。
又、練貫水で豊臣秀吉がお茶をたてると、あまりにも美味しかったので、京都の聚楽第から家臣が毎日、水を汲みにやって来ました。 秀吉は北野の大茶会でもここの水を使ったといわれている。
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三尾神社
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三尾神社は伊弉冉尊(いざなぎのみこと)が長等山に降りて来られたさいに、赤、白、黒の腰帯を三つの尾ように、たらされて、おられたので三尾『みお』神社と名づけられた。
帯は赤尾神、白尾神、黒尾神となられて、本神である赤尾
神は卯年の卯月、卯日、卯の刻に卯の方向から現れたので、ウサギが神獣となった。
現在の本社は三井寺の開祖智証大師が復興され、足利将軍が再興されたものです。また豊臣秀吉が修復し社領を寄進しました。
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円満院
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987年に村上天皇の皇子、悟円法親王が創建したと伝わっている。
宸殿(重要文化財)は1619年に二代将軍徳川秀忠と江姫との子、和子が後水尾天皇と御成婚されたさいに京都御所に造営されたものと言われている。その後1647年に和子の子、明正天皇(女性天皇)によって円満院に移築されました。
室町時代の造園家 相阿弥が造った鶴亀の蓬莱庭は国の名勝と史跡に指定されている。
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穴太遺跡出土 オンドル遺跡
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穴太遺跡から6世紀前半と思われるオンドル遺跡が出土
した。朝鮮各地や中国吉林省のものと比べると百済の
ものに最も近い。
滋賀県は若狭湾にやって来る渡来系氏族
(和邇 息長 錦織 三尾)が一時的居住地だったうえに
天智天皇の白村江敗北以来、百済氏族が入り薬草 染織 鍛冶などの技術者がこの地に居住したのも、大津京遷都
の理由の一つかも知れません。
歴史博物館の東30m
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