志賀の山越えヒストリ30
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京都より山中町入り口、右手ガードレールが途切れている
所に細い階段があり、降りて5M前方にある。重ね石四体仏
も此処にある。
1873年(明治6)従是西南山城國 従是東北近江國と書かれた国界標石。京都・滋賀両府県の見解相違により不明確であった境界が国により確定され比叡山頂から山中村重ね石までに設置された標識のひとつです。
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志賀の山越えヒストリ29
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京都より山中町入り口、左側に立派な宝篋印塔が建っている
1861年に鳩居堂(寺町姉小路上ル)七代 熊谷直孝が
父 直恭が有信堂という種痘所を作り、自身もコレラに
感染、亡くなった事による供養塔。
又この地に牛馬の
休憩場(店で書画の筆を作る為に多くの動物の毛を山中で獲っていた事による供養塔)を作った。
直孝は有信堂に寺子屋を少し組織化した教育塾を設置し、これが全国で最初の小学校開設の基になり、明治2年(1869年)柳池小学校が開校された。
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志賀の山越えヒストリ28
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1721年 大津宿人馬役人の訴えによると下阪本の
荷問屋が、大津を経由せず、直接志賀越で搬送している事実をあげていた。此のままでは、大津の着荷が減少して
町の衰退になると、度々大津代官所や京都奉行に訴えていた
1811年には、大津御用米会所が唐崎 下阪本浦から
米輸送があると指摘し、この中止を訴えている。これが幕末末期になると、さらに激しくなって来ました。
1837年には、老中水野忠邦、名で志賀越え等を使用しての物資搬入を禁じる命令を出すようになっていた。
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志賀の山越えヒストリ27
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1711年 貝原益軒が京城勝覧に山中を紹介している。
山中民家多し。町あり。深山の中なり、寒気深くして
梅花も二月に咲く。桜はなをおそし。此の谷中山ふかく
水清く、林しげくて景よし。志賀の山越えは右の方にあり
むかし道なり。今坂本にゆくには新道を通る。
今道の峠より眼下に湖水見えて佳景なり。
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志賀の山越えヒストリ26
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西教寺略縁記、原文2を解読
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志賀の山越えヒストリ25
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西教寺略縁記の原文2です
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志賀の山越えヒストリ24
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どうも、原文を写真で撮り忘れたようです。
解説文のみです。
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志賀の山越えヒストリ23
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この絵図の左ページには山中村 八大龍王日天寺でしょうか
それに加えて、大乘寺、無動寺が描かれています。
右のページには関明神(関蝉丸神社)薬師院西教寺が描かれたお堂の横で最澄が井戸を掘り、霊水が湧き出し
瑠璃壺水と呼ばれた。今の玉ノ井であろうか
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