山中比叡平「歴史散歩」<15> 田中伸
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坂本六地蔵 比叡辻地蔵
下阪本6丁目、観福寺境内にある坂本六地蔵の一つ比叡辻地蔵です。北国街道沿いにあったので旅の安全を守る地蔵として、崇められています。地蔵の光背が欠けているのは、信長の延暦寺焼き討ちのさいに欠けてしまったと言われています。

伝教大師最澄が自作した六地蔵を、その後弟子の慈覚大師円仁が人々に徳を授けるために辻々に再配置されました。


坂本六地蔵 穴太地蔵
穴太2丁目にある、穴太地蔵は坂本六地蔵の一つで 伝教大師の自作との言い伝えがある。北国街道が滋賀より穴太に入る曲がり角にあったために曲がり地蔵とも呼ばれた。また村の入り口に安置され、病気や災難を入らぬように、防いで下さることから延命地蔵とも呼ばれています。


唐崎神社
唐崎神社は持統天皇が697年に創建されたと伝えられています。祭神は女別当命(わけすきひめのみこと)で婦人病にご利益があります。

平安時代には桓武天皇、嵯峨天皇が山中越えで崇福寺、 梵釈寺から唐崎神社までたびたび行幸(天皇が出かける)しました。朝廷の七瀬祓所(天皇の災禍を毎月、人形を七瀬の水に流してお祓いをした)の一つでもあった。 唐崎の景観の良さと、湖水の清らかさがこれを、なしえたと言えるでしょう。

7月28、29日にみたらし祭がおこなわれます。七瀬祓いの流れを汲み、人形に名前を書いてこれを忌串(大きな釣り鐘の形)にして、夜に湖上で燃やします、このあとは、手筒花火が120発あがります。


近江八景 唐崎の松
近江八景で有名な唐崎の松も、今の松は数代、経っているが天智天皇のころとか、舒明天皇とか、推古天皇 とかさまざまに伝えられている。

現在の松は昭和4年に先代の松が枯れた以降のものであるが、その先代の 松の葉には、一本葉の珍しい松葉が含まれ、観光客も良く買っていました。江戸時代から唐崎の一つ松と 呼ばれていた。

1591年に大風で倒れてしまい、当時大津城主の新庄直頼の弟、直寿が姿の素晴らしい松を得て、 坂本城主 明智光秀が松を植え替えた言い伝えがある


滋賀里遺跡
滋賀里遺跡から縄文時代約3000年前の墓地甕棺墓(土器の棺)が25基、見つかった。 貝塚からはセタシジミや鹿、猪、スッポン、コイ、フナなどの骨と、弓や石斧、木の椀籃胎漆器(竹籠に漆を塗り重ねた漆器)が出土しました。

6世紀後半まだ大津宮遷都されていない頃の大壁建物が滋賀里一帯、約3km以内で40戸が見つかりました。大壁建物は中国、朝鮮半島の工法でこの頃の日本は竪穴式住居を建てていました。

南滋賀、滋賀里、穴太は中国大陸、朝鮮半島の渡来人が住む大きな村があって、渡来文化が花開いていたのでしょうね。


倭神社
滋賀里3丁目1番、京阪滋賀里駅、北方約500mにある赤塚古墳と呼ばれている墳墓の上に祀られている倭神社(しどりじんじゃ)明治26年に社改築のさいに、石室が内部が朱塗りである事がわかったが、これより前に知られていて赤塚村の地名の由来ともいわれている。

この古墳は昔より、天皇のもので、天塚の明神さんと言った。倭神社の祭神は天智天皇の皇后で倭姫、倭姫はここに葬らているとの言い伝えがあります。


近江大津宮錦織遺跡
662年に飛鳥より中大兄皇子(天智天皇)が大津宮に遷都した理由は、4年前の白村江の戦いで唐、新羅連合軍に惨敗し、本土侵攻への危機感と抵抗勢力の多い飛鳥より離れた大津に、新しい政治体制を構築しょうとしたのでは、ないかと考えられています。

大津宮と大津京どちらが正しいか、日本書紀の天智天皇紀では近江宮。天武天皇元年条では近江京(おおみのみやこ)。 持統天皇六年閏5月条では近江大津宮、その後、万葉集の柿本人麻呂の歌あたりから大津宮が一般的となりました。

大津京との呼び方があるが、平城京や平安京のような条坊制(碁盤の目の都市)の都ではないので、大津宮が妥当だと思いますが


三井寺塔頭 光浄院
三井寺は豊臣秀吉の怒りをかって、所領は没収され建物を破壊されました(1595年)。塔頭、光浄院も例外なく破壊されました。

(1601年)三井寺の僧で、瀬田城主として秀吉に仕えた武将の山岡道阿弥景友が再興しました。客殿は国宝で、一之間、二之間にある障壁画は狩野山楽作の重要文化財です。


三井寺 金堂
三井寺の本堂、金堂には、本尊、弥勒菩薩が祀られています。 「寺門伝記補録」によると、身丈三寸二分の弥勒菩薩が祀られていると書かれています。 絶対の秘仏となっているために見る事ができません。

この弥勒菩薩は天智天皇の御念持仏と伝えられています。 さらに、推古天皇、聖武天皇、陽成天皇、藤原鎌足、藤原道長、行基菩薩が奉納した 六躯もの弥勒菩薩がお祀りされています。その他にも智証大師ゆかりの仏像や宝物が秘仏として大切に安置されています。

国宝、金堂は桃山時代1599年に豊臣秀吉の北の政所によって再建されました。


三井の晩鐘
日本の三銘鐘とは 姿の立派な宇治平等院の鐘、由緒の正しい高雄神護寺と、音色の美しさで選ばれた三井寺。 三井の晩鐘は、日本の音100に選ばれています。

耳を澄ますと、この梵鐘、ドレミの「ラ」の音の、四分の一ほど低い音で鳴り響いています。 西洋の音楽がド(C)の音を基準音とするのに対して、東洋ではラ(A)が基本になります。 永い梵鐘づくりの経験を経て、鐘の形や大きさ、厚さ、銅の配合といったものから、 美しいラの音が出るように完成させたのかもしれません。

1602年に弁慶の引き摺り鐘を模して作られました。


観音霊場西国33所第14番 三...
昭和30年に観音霊場西国33所は巡礼が始まつて1300年になる、日本最古の巡礼路です。

徳道上人が仮死状態になった時に、閻魔大王のお告げで「生前の悪いおこないによって地獄へ送られるものが多い、観音霊場を参ることにより功徳があるように、人々に観音菩薩の慈悲の心を説け」と言われて、生き返った徳道上人は観音霊場西国33所に宝印を配り33所の御朱印をもらえば、極楽浄土へのパスポートになりました。

写真は北国橋より西国第14番三井寺 観音堂


三井寺 弁慶の引き摺り鐘
藤原秀郷が近江三上山(近江富士)を3周巻いた大ムカデを退治したさいに、瀬田の龍神にもらった梵鐘を三井寺に寄進しました。龍神の言う事には、もともと祇園精舎の鐘(平家物語の冒頭部分、祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり)であったらしい。

奈良時代の作で、三井寺の初代の梵鐘といわれている。 延暦寺の僧、怪力で知られる弁慶が対立抗争のあった三井寺より比叡山の延暦寺まで引き摺りあげたが、撞いてみると、「いのーいのー」と鳴るので、怒った弁慶が谷へ蹴落としたと伝えられています。





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