延暦寺 戒壇院
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僧になるための必修の条件である大乗戒(戒律)を受ける堂で、
年に一度授戒会がおこなわれる。828年、最澄の死後、7日目
に嵯峨天皇より勅許がおりて創建されました。
現在の建物は16
87年に再建(重要文化財)されたもので釈迦如来、文殊菩薩、
弥勒菩薩が祀らている。
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延暦寺 大講堂
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大講堂は僧侶が法華経の講義を聞いたり、お互いに問答をして
学問修行の道場です。幾度となく焼失した、建物は1963年に
坂本東照宮の本地堂(重要文化財)を移築したものです。最初か
ら数えて10代目の建築物です。
本尊は大日如来で、本尊の両脇には日蓮、道元、栄西、法然、
親鸞、円珍、良忍、真盛、一遍といった、比叡山から大成して
新たに宗派を打ち立てた祖師の像が安置されています。
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延暦寺 大黒堂
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最澄が一乗止観院を創建した時に大黒堂のある、この地で仙人に
遭った。最澄は「あなたは、どなたで、何をしに来られました」
と尋ねると、その仙人は「普 利 衆 生 、 皆 令 離 苦 、得安穏世
間 之 楽 及 涅 槃 楽 」と法華経を唱えて答えました。
これを聞い
た最澄は「それなら、ここで修行する僧侶の食生活と、健康管理
のための比叡山の経済を守って下さい」と言うと仙人は「三千人
の食料を準備しましょう。私を拝むものには福徳と寿命をあたえ
ます」と約束されました。最澄はこの人こそ三面大黒天に間違い
ないと思い、身を清めて。一刀三拝して三面大黒天を彫り、安置
したと伝わっている。
その後、豊臣秀吉が三面大黒天に出世を願い、遂に豊太閤になっ
たことから福徳延寿を授かる大黒天として信仰を集めています。
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延暦寺 根本中堂
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今、根本中堂は60年に一度の大修理が行われ、大きな鉄骨が
回りを取り囲んでいる。修理が終わるのは10年後の2028年
です。
比叡山はもともと原始的な山岳信仰であったが、奈良時代に入る
と、しだいに山岳修行僧が増えだして各所に草庵、仏堂を構える
ようになっていた。
最澄は785年に近江国分寺からこの山に入
り草庵「神宮禅院」を結んだ。12年間の修行生活の間に
根本薬師堂、経蔵、文殊堂の三つからなる一乗止観院を建立した。
平安京が建設されると比叡山はにわかに注目されるようになり、
最澄が宮中の十禅師の一人に数えられ、朝廷との関わりを深く
するようになった。さらに入唐した最澄は声価を高めることにな
りました。
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延暦寺 文殊楼
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本坂を登ると延暦寺の総門でもある文殊楼をくぐると、大きな
根本中堂の大屋根が見えるはずが・・・
864年に慈覚大師円仁によって建立され、山門焼き討ちの後
1688年に徳川家光により重層和唐様式に再建されたものの
焼失、現在の建物は1668年に建てられ、重要文化財です。
2階には文殊菩薩が祀られ、受験生の合格祈願に人気がある。
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亀塔
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坂本、本坂を登ること一時間と少しにある亀塔。
この塔は豊臣秀吉の侍医だった全宗が延暦寺焼き討ちの後、秀吉に延暦寺再興を願い出て、山門再興を認める判物を頂き、再興に努力した全宗の行状が書かれている石碑です。
坂本の薬樹院に住んでいた全宗、その庭に春になると絢爛豪華に
咲く巨木の枝垂れ桜を太閤桜と呼ばれている。
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日吉大社 東本宮
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古事記に「大山咋神この名を山末之大主神。近淡海国の日枝の山坐し」とあるがこれは日吉大社の東本宮の祭神、大山咋神につ
いて書かれたものです。
日枝の山とは後の比叡山のことで、日吉社
は、崇神天皇7年に日枝の山から現在の地に移されました。
1586年に豊臣秀吉が日吉丸、猿と呼ばれていたことから、いち早く再建したそうです。
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