山中比叡平「歴史散歩」<22> 田中伸
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延暦寺 戒壇院
僧になるための必修の条件である大乗戒(戒律)を受ける堂で、 年に一度授戒会がおこなわれる。828年、最澄の死後、7日目 に嵯峨天皇より勅許がおりて創建されました。

現在の建物は16 87年に再建(重要文化財)されたもので釈迦如来、文殊菩薩、 弥勒菩薩が祀らている。


延暦寺 大講堂
大講堂は僧侶が法華経の講義を聞いたり、お互いに問答をして 学問修行の道場です。幾度となく焼失した、建物は1963年に 坂本東照宮の本地堂(重要文化財)を移築したものです。最初か ら数えて10代目の建築物です。

本尊は大日如来で、本尊の両脇には日蓮、道元、栄西、法然、 親鸞、円珍、良忍、真盛、一遍といった、比叡山から大成して 新たに宗派を打ち立てた祖師の像が安置されています。  


延暦寺 大黒堂
最澄が一乗止観院を創建した時に大黒堂のある、この地で仙人に 遭った。最澄は「あなたは、どなたで、何をしに来られました」 と尋ねると、その仙人は「普 利 衆 生 、 皆 令 離 苦 、得安穏世 間 之 楽 及 涅 槃 楽 」と法華経を唱えて答えました。

これを聞い た最澄は「それなら、ここで修行する僧侶の食生活と、健康管理 のための比叡山の経済を守って下さい」と言うと仙人は「三千人 の食料を準備しましょう。私を拝むものには福徳と寿命をあたえ ます」と約束されました。最澄はこの人こそ三面大黒天に間違い ないと思い、身を清めて。一刀三拝して三面大黒天を彫り、安置 したと伝わっている。

その後、豊臣秀吉が三面大黒天に出世を願い、遂に豊太閤になっ たことから福徳延寿を授かる大黒天として信仰を集めています。


延暦寺 根本中堂
今、根本中堂は60年に一度の大修理が行われ、大きな鉄骨が 回りを取り囲んでいる。修理が終わるのは10年後の2028年 です。

比叡山はもともと原始的な山岳信仰であったが、奈良時代に入る と、しだいに山岳修行僧が増えだして各所に草庵、仏堂を構える ようになっていた。

最澄は785年に近江国分寺からこの山に入 り草庵「神宮禅院」を結んだ。12年間の修行生活の間に 根本薬師堂、経蔵、文殊堂の三つからなる一乗止観院を建立した。

平安京が建設されると比叡山はにわかに注目されるようになり、 最澄が宮中の十禅師の一人に数えられ、朝廷との関わりを深く するようになった。さらに入唐した最澄は声価を高めることにな りました。


延暦寺 文殊楼
本坂を登ると延暦寺の総門でもある文殊楼をくぐると、大きな 根本中堂の大屋根が見えるはずが・・・

864年に慈覚大師円仁によって建立され、山門焼き討ちの後 1688年に徳川家光により重層和唐様式に再建されたものの 焼失、現在の建物は1668年に建てられ、重要文化財です。

2階には文殊菩薩が祀られ、受験生の合格祈願に人気がある。


亀塔
坂本、本坂を登ること一時間と少しにある亀塔。

この塔は豊臣秀吉の侍医だった全宗が延暦寺焼き討ちの後、秀吉に延暦寺再興を願い出て、山門再興を認める判物を頂き、再興に努力した全宗の行状が書かれている石碑です。

坂本の薬樹院に住んでいた全宗、その庭に春になると絢爛豪華に 咲く巨木の枝垂れ桜を太閤桜と呼ばれている。


日吉大社 東本宮
古事記に「大山咋神この名を山末之大主神。近淡海国の日枝の山坐し」とあるがこれは日吉大社の東本宮の祭神、大山咋神につ いて書かれたものです。

日枝の山とは後の比叡山のことで、日吉社 は、崇神天皇7年に日枝の山から現在の地に移されました。

1586年に豊臣秀吉が日吉丸、猿と呼ばれていたことから、いち早く再建したそうです。





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