山中比叡平「歴史散歩」<24> 田中伸
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山中城俯瞰図
滋賀県中世城郭調査報告書によると、山中町には口ノ城と呼ばれている。もう一つの山城があったらしい。

県教育委員会は 山中町の京都寄りの山を隈なく探したが徒労に終わったと書いている。京都側が比定地とされていたので、志賀越えを調査 しなかった事を後悔しているようです。

散策したいが、山で迷うのは恐いし・・・ 当分は地図とにらめっこして、想像だけ 膨らまそう

先日書いたサークルK駐車場より見た奥の城の方向間違って いました。北西です。これでは山で迷子になるなぁ


山中城俯瞰図
サークルK駐車場より南西に約300mにある山中城俯瞰図
長さ110m 横幅10mから20m

1 土橋
2 竪堀
3 土橋
4 土塁
5 土塁
6 主郭
7 堀切
8 食い違い虎口

(参考 滋賀県中世城郭調査報告書9 加筆)


山中城 主郭
写真は奥の城の頂上、居城(主郭)があったであろう所から北北東を望む、写真ではわかりにくいが樹々の間から志賀越えが見え ます。

1568年に信長が志賀越えの通行を禁止して新道(近江神宮より山中町、今の山中越え)を造った。この後、信長は京都へこの新道で上洛している。

居城より南東方向は視界をさえぎる山が無いのでサークルKが見えるはずが、樹々に遮られて見えませんでした。

志賀越は大津宮があった頃に、山城国からの参拝道としてあった。 平安時代に都から崇福寺や梵釈寺、唐崎の参拝ルートとして賑わ い、徐々に近江と京への物流ルートとして発展。室町時代には 京 近江間の主要幹線道として志賀越え、山中町も人、物、金 の流れがピークを迎えます。

せっかく信長が今の山中越えを 造ったが、秀吉の時代に大阪城が出来て、物流の流れは変わって きます。徳川時代は決定的に変わった。東海道が出来て山中越え は間道となりました。

山中城 土塁
居城があったと思われる所(奥の城の山頂)より南に100m 程、行くと三日月状の高さ2m以上の土塁があります。

東を向いているので、サークルKより登って来る敵の防御です。 サークルK面の東尾根には縦堀が薄く一つ残っています。 敵が横に広がって攻め難くするためのものです。


山中城 食い違い虎口
旧山中小学校のプール、東側から、尾根筋のとっかかり部に食い 違い虎口のような所があるのですが違うかな。

この堀はそれとも 薬研堀か、両側から弓、槍、鉄砲で襲う堀。ただの城道かも知れ ません。  


山中城ルート
1546年に山科言継が磯谷久次の居館に宿泊した文献は残って いる。1990年代に滋賀県教育委員会は山中城の調査を行って います。委員会が歩いたであろうルートを歩いてみた。

地図、コンパスを持たずに入山しないで下さい。山道はついて いないので地図が頼りです。地図を持っていても迷いました。


西教寺 阿弥陀如来二十五菩薩群
阿弥陀如来二十五菩薩群は1584年作で絵画で見られる

阿弥陀如来二十五菩薩来迎図を立体的に155cm前後の 石像二十八体で、粟田郡の富田氏が、亡くなった娘の極楽浄土を 願って造られました。


西教寺 小堀遠州の庭
小堀遠州は豊臣秀吉、徳川家康 秀忠 家光に仕え、近江小室藩 主一万二千石、徳川家の作事奉行として、江戸城、名古屋城、 二条城などを建てた建築家であり、造園家としても、かず多く てがけた。利休、織部に師事し徳川将軍家茶道の指南役でもあっ た。生まれは滋賀県、長浜市。


西教寺 明智秀満 湖中渡の鞍
柳が崎湖畔公園の有料駐車場にある、明智秀満の駒止めの松は 本能寺の変後に山崎で明智光秀が討たれた一報を、伝えるために 打出浜より柳が崎まで、馬に乗ったまま湖中を渡った時の鞍が 西教寺にありました。





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