志賀の山越えヒストリ8
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室町時代の都(京都)の人口は20万人 この頃の坂本の
人口は2万人、全国10位の大都市であった。
(大津は1.5万)
坂本は航路 陸路(北国 山中越)の物流の要であった
山中にも馬借(運送業)があり、延暦寺が山中関を設け
山中口味噌(京都に運ぶ味噌)馬借 酒に関銭を取った
4斗樽(酒) 3荷と人夫で銭100文払った記録かある
ちなみに、この頃の1文は今の金で50円位
この頃の社寺は八坂神社が織物座 南禅寺が油座
北野神社が麹座を管理していた。
写真は日吉大社の大鳥居
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志賀の山越えヒストリ7
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1443年 武士が延暦寺を襲ったのは信長と
6代征夷大将軍 足利義教だけである
天台座主でもあった義教は、座主を下りた後に
弟、義承を天台座主に任命した。
義教の家来、山奉行が不正を働き延暦寺ともめた
延暦寺が勝訴 後同調しなかった園城寺を延暦寺が焼討ち
激怒した義教は延暦寺を焼討ちした
この時も志賀越を使っている。
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志賀の山越えヒストリ6
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1147年 祇園乱闘事件 八坂神社の神人と
平清盛 忠盛の郎党が小競り合いとなって宝殿に矢が当たった事で
延暦寺僧兵などが、日吉大社の神輿を担いで京に乱入し
清盛親子の島流しを求めて強訴した
この頃の延暦寺は独立国状態で鳥羽法皇の権力さえ
ねじ伏せる力があり、3日の内に答えを出せと迫った
法王は次の強訴を阻止するために諸国の武士を、かき集め
今道(志賀越)如意ヶ岳路 西坂下へ警備に向かわさせた
約3週間、警備につかせ何とか強訴は回避出来た
法王は清盛に銅30斤の罰金と謝罪
この頃より、じわじわと武士の存在感が増して来た
時々、志賀越は強訴に使われたようです。
写真は志賀越 弁財天灯籠 付近
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