志賀の山越えヒストリ49
|
平成25年 幼保一体化施設『やまのこひろば』は市立比叡平小に隣接する幼稚園の園舎を改修、増築し、調理室や0歳児と1歳児の保育室を新たに設けた。同じ部屋で保育と教育を行い、幼稚園児の希望者も保育所で出される給食を食べられるが、預かる時間は別にする。
完成式には越直美市長や市議ら約100人が出席。越市長は市長選のマニフェストに待機児童解消を盛り込むなど、子育て施策充実を打ち出しており、「地域の子育ての拠点となってほしい」とあいさつ、園児らとくす玉を割って祝った。
|
|
志賀の山越えヒストリ48
|
大津市協働のまちづくり推進条令が2011年度より施行されたことを機に、学区自治連、社会福祉協議会、NPO法人陽だまりの会が中心となり、保育園跡に住民が交流する場 山中比叡平住民交流・まちづくりセンター 愛称「こもれび」が平成25年に開設されました。
2015年7月の大津市との協議会で、山中比叡平住民交流・まちづくりセンターは、大津市協働のまちづくり推進条例に基づく協働事業である」と合意しました。
大津市協働のまちづくり推進条令」に基づき、山中比叡平学区における協働によるまちづくり事業の一環として広範に住民が集う事業を推進することにより、人と人のつながりを強め、誰もが住み続けたくなる山中比叡平地域を築いていくことに寄与することを目的としています。
事業内容は「楽市楽座 金曜カフェ」「陽だまりサロン」「リユースセンター」「やまのヘアーサロン」「やまの保健室」「防災展示室」「いつでも使用出来る多目的室、必ず問い合わせをする」です。
|
|
志賀の山越えヒストリ47
|
山中比叡平はアテネ五輪にオリンピック選手を3人排出しています。シンクロの立花美哉さん(アトランタ銅、シドニー銀、アテネ銀)フェーシングの太田雄貴さん(北京 銀、ロンドン銀) 競泳の三木二郎さん(アテネ7位入賞)
比叡平小学校の校舎の裏に、だいらっこの森と呼ばれている所があります。そこは児童が休み時間に秘密基地を作ったり、枝を武器代わりに、森を飛び回っています。
太田雄貴さんも「だいらっこの森でよく遊びました」また他のインタビューでは「豊かな自然環境の中で、いつの間にか鍛えられていたということはあるかもしれません」と言われています。
|
|
志賀の山越えヒストリ46
|
昭和56年 団員4年生以上26名 指導者4名で比叡平スポーツ少年団バレーボール部として発足しました。全国大会
12回出場のうち優勝4回 準優勝3回 3位1回 8位
2回と、輝かしい成績をおさめました。
現在の部員は男子3名女子7名の計10名です。山中比叡平学区外の子どもたちも参加してくれるようになり、大会などは比叡平バレーボールクラブとして参加しています。
緑豊かな自然の中で日々の練習を通じて競技技術の向上だけではなく、思いやりや優しさ、礼儀作法など人として大切なものを身に付けられるよう指導者、育成団ともに力を合わせて頑張っております。
|
|
志賀の山越えヒストリ45
|
昭和59年 山中比叡平市民センター竣工
|
|
志賀の山越えヒストリ44
|
昭和55年 比叡平小学校開校に伴い 後に山中小学校
(志賀小学校山中分教場から比叡平小学校山中分教場)
比叡平小学校へ統合し、廃校となる。
写真は廃校直前の山中小学校
|
|
志賀の山越えヒストリ43
|
昭和54年 比叡平小学校が開校される
|
|
志賀の山越えヒストリ42
|
昭和42年より昭和52年にかけて、比叡平地区に団地の
造成が開始された。1丁目 2丁目 3丁目の新しい
住宅団地が完成された。
写真は造成中の比叡平団地
|
|
志賀の山越えヒストリ42
|
昭和33年 田ノ谷峠から比叡山山頂にドライブウェイが開通すると
山中越えは比叡山への観光道路として、賑わうこととなった
|
|
志賀の山越えヒストリ41
|
昭和9年11月16日 錦織から田の谷峠を通り山中に至る
山中越ドライブウェイ(現在の下鴨大津線)の竣工式が行われた。
滋賀里より滋賀峠を越えて山中に至る旧道とは大きく異なり
全長6110メートル 道幅4.6メートルで京津間の循環観光ルートとしての利用が期待された。
|
|
志賀の山越えヒストリ40
|
山中町は昔から何度か大火に見舞われたそうで、ある時の大火で山中全体が焼失してしまったことがあった。火の手は村の両側から進み、極楽寺の隣の民家を一軒残して、鎮火した
この時の大火が3月5日であったため、昔はその日を焼き休みと呼んで、村民がいっさいに仕事を休んだ。そして樹下神社へ百燈を上げて其の日をしのんだといい、又焼け残った民家の子孫は神社へ御神酒と御米を捧げたと伝えられている。
この行事は戦時中迄は続けていたようである。
|