七本柳 山王祭 渡御
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志津若宮神社より北東へ300m湖中に立つ山王鳥居がある浜が七本柳です。
湖国三大祭の一つ山王祭は3月1日より4月
15日にかけて行われる、4月14日には日吉大社西本宮殿か
ら7基の神輿が下阪本七本柳浜まで担がれ、ここで神輿を
神輿船に乗せて、湖上で粟津の御供が行われ、北へ2km位、
渡御して若宮神社の裏の港に着き、夕闇迫る頃、松明の光を
もとに西本宮に帰ります。
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志津若宮神社の狛犬
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志津若宮神社の狛犬、文殊菩薩も見てみたい。
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志津若宮神社
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盛安寺より東に600m、下阪本1丁目24にある志津若宮神社、ここにある狛犬は室町時代の様式を伝え、高さ37cm
いずれの狛犬の台座に文禄三年(1594 5月日)
伏見新三郎と彫られています。
また神仏混交の時代に本地仏
であったと思われる室町時代の文殊菩薩坐像、従者像が残って
いると大津市史に書かれていたので、これは見たいと思い
境内を探して見るが、どこにも見当たりませんでした。
ネットで狛犬、仏像を検索したがヒットしない、こうなると
見たい思いが募るだけ
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宝光寺
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盛安寺観音堂の隣に宝光寺があります。
重要文化財、阿弥陀如来立像は、もともと京都市左京区浄土寺、真如堂にありましたが、応仁の乱で真如堂が焼け、1470年に仏像はこの寺に移りました。鎌倉時代に作られたと言われています
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盛安寺 十一面観世音菩薩立像
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盛安寺の道を挟んだ南に観音堂(仏像庫)があります。拝観は5、6、10月の毎週土曜日とゴールデンウィーク、正月
三ヶ日に拝観することが出来る。
十一面観世音菩薩立像は
崇福寺(大津宮 天智天皇建立)にお祀りしてあった観音様
で平安時代に作られたと言われ、重要文化財です。
白洲正子は錫杖を持つ姿を、絶賛しています。また井上靖は
小説、星と祭りのなかで「観音さまの微笑を、ふくんだ顔
を仰いでいると、自然にこちらも微笑せずにはいられない、
そんな感じである」と書いています。
私もまだ拝観していな
いので地蔵菩薩のように錫杖を持ち、ふくよかな顔で微笑む
姿を是非、見てみたいと思っています。
観音堂の拝観は無料で駐車場は7台、客殿(重要文化財)と枯山水庭園は拝観予約で300円です。比叡平から車で15分
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盛安寺
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穴太野添古墳群より東へ歩いて10分、坂本1丁目17−1にある天台真盛宗 盛安寺です。
創建は不明ですが、朝倉の
家臣で杉若盛安が再興して、自分の名前をつけました。
伏見城の廃材で作られた客殿は重要文化財で17世紀頃に
建てられたと言われています。長谷川派の障壁画、明智光秀
の陣太鼓などがあります。
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穴太野添古墳群
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穴太駅より北西に10分、穴太3丁目15−1にある穴太野添古墳群です。
近江神宮から日吉大社までの山手には
1000基以上の古墳がある密集地帯、その中では最大数180基以上が確認された穴太野添古墳群です。
すべての古墳がドーム型天井をもつ横穴式石室で埋葬品
(ミニチア炊飯セット)などから6世紀中期から7世紀
初期の渡来人の古墳と考えられています。
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壺笠山城
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壺笠山城は穴太駅より西方の山中にあり白鳥越を守るために
築かれた。
1570年、浅井、朝倉軍は延暦寺を味方にして
この城に立て籠もり、織田信長と激しい攻防が続いたが信長
は落とせずに、和議となりました。この壺笠山の戦いが翌年
信長による延暦寺の焼き討ちへと展開することになった。
信長が当地区を支配下に治めたことは、軍事的に重要であっ
た。山門勢力を完全に押え込むとともに、近代城郭の始まり
である安土城築城には、優れた石積みの技術を持つ穴太衆
を動員させたことが、穴太衆が一躍脚光をあびることになり
ました。
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乙御前馬場の雷石
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仲哀天皇 産湯の水より東に200m、道左側に
長さ6m、幅3mの大きな石があります。
石の上面
に、臍のような痣があるた言われています、それは
雷が落ちた時に忘れていった臍で、地元では雷石と
呼ばれている。道路改修のさいに大石は半分以上が
埋まってしまいました。
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仲哀天皇 産湯の水
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京阪穴太駅より西に、湖の美が丘団地へ行く迄の道
を斜め右に行くと高穴穂神社の御旅所があります。
そこの井泉は、かって清水が湧き出ていました。
地元では、仲哀天皇の産湯の水と呼び、天皇は穴太
で生まれ、産湯を使ったと言い伝えられています。
昔はこの霊水を求めて、遠方から多くの人々がやっ
て来ましたが、今では絶えてしまいました。
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