西教寺 明智煕子の墓
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明智光秀の妻、煕子の墓であります。
当時、光秀クラスの武将は
側室をかかえているのが普通であるが、光秀は側室をもつことなく一人の妻を愛した。それは光秀が貧しい頃に、持ち回りの連歌
会で、お金が無かったので煕子は黒髪を売って席をもうけたと伝
えられています。
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西教寺 明智一族の墓
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明智光秀と一族の墓である。光秀は山門焼き討ち後に、坂本城主
となり。信長には黙って城から近かった西教寺の檀家となった。
焼き討ち2年後には復興に尽力し、本尊の手配から庫裏の建設
梵鐘(陣鐘)の寄進、城門の移築、堅田城の戦いで戦死した家臣
を供養した時の供養米の寄進状などが寺に残っています。
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西教寺 本堂
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西教寺は戒律と念仏の道場で、いつ行っても本堂では尼様が、鉦
を叩く音と念仏を唱える声が静かに響き、堂内は幽玄静寂な空気
が漂っています。本尊は阿弥陀如来(重要文化財)本堂も重要文化財です。
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西教寺 総門
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西教寺は聖徳太子の創建と伝えられているが、その後、荒廃して
中興の祖 真盛が天台真盛宗総本山として再興しました。
西教寺と明智光秀のかかわりが深く、この総門は坂本城門を移築
したものと、いわれています。
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延暦寺 西塔 釈迦堂
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三井寺の金堂(1347年 建立)を豊臣秀吉が1595年に
西塔の本堂(釈迦堂)として移築しました。延暦寺で一番古い
建物で重要文化財です。
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延暦寺 常行堂 法華堂
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常行堂は90日間、法華堂は21日間の修行を行う道場です。
弁慶が両堂をつなぐ廊下に肩を入れて担いだといわれた事から
にない堂と呼ぶようになりました。重要文化財です。
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大比叡
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延暦寺までは何度か登ったことがあるが、今回、初めて比叡山
山頂まで登ろうと思い、阿弥陀堂から30分以上かかって三角点
へ、大比叡と呼ばれているのを初めて知った。木々に囲まれてい
て眺望はゼロで、期待外れでした。
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延暦寺 法華総持院東塔
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最澄は全国六ヶ所に宝塔を建て、その中心にあるのが法華総持院
東塔です。慈覚大師円仁が862年に創建するが、山門焼き討ち
で焼失し、その後400年ぶりに昭和55年に再建された。塔の
上層部には仏舎利と法華経が安置されている。本尊は大日如来で
五智如来と共に祀られています。
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