志賀の山越えヒストリ39
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樹下神社で1月十五日に行なわれるお弓行事は、弓取り役の青年二人が左手に矢二本を持ち、朱塗りの弓取り役から射座の前方に作られた長方形の砂盛の周囲を左回りにゆっくり廻り、続いて黒塗りの弓取り役が半周遅れて周り、両者が二周する。三周目に砂盛の前方にある円錐形の籌取り用の砂盛に足を伸ばし大回りして元の射座に帰る。
次に小さい掛け声を合わせて同時に的の方向に向き、朱弓の役からから一本の弓矢をゆっくり構えて矢を放つ。その後、黒弓役に移る。二本の矢がそれぞれ放たれるが、この時は的に当てることよりも伝承されてきた作法を守って弓射することが大切にされる。
終わると両役は円錐形の砂盛に進み、砂盛に籌取りの竹串を二、三本取って挿し、弓は師匠に渡し、弓立てに立てかけられる。これを小憩ののち二度繰り返し三度目の弓射の時、両者が最後の一本の矢を的から外し
天空に向かって矢を放ち矢射を終わる其の時に、もっと天井やぶれと野次が飛び交う。
両役は砂盛から籌取りの竹串を二本ずつ抜き取って、もとの席に戻ちり、師匠の一人が宮守りと氏子総代の前へ進み出てへぎ板に乗せた扇子他を受取、砂盛に残された籌取りの竹串を集めて、行事は無事に終了する。
お弓行事を終えると馬場では的の上にはわせた藁の大蛇で子供達による綱引きが行なわれる。以前は大人もこの綱引きに参加し日没迄、何回となく勝負が行われた。
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志賀の山越えヒストリ38
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樹下神社では五月十二日に御膳持ちという神事が行なわれる。
舟と呼ばれる木製の容器に神酒、赤飯、豆腐、ワカメ、カマスの開きなどのお供物をのせ、それを頭上にいただいた御膳持ちの女性が宮守の家から神社まで運ぶ。服装は和服の正装であるが以前は花嫁姿であったという。
御膳持ちの前後に、提灯持ち、頭屋、神主、宮守、巫女などが、正装して行列する。神社に到着すると、清祓い、祝詞奏上、巫女による神楽などの神事が行なわれる。
そして神輿から本殿へお宮移しが行なわれ、最初と同様に
御膳持ちを中心に行列を組、一行は宮守りの家に出発する。
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志賀の山越えヒストリ37
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山中町から京都粟田口近辺まで白川沿いには多くの水車が見られた。製粉、精米、金粉 伸銅など産業に水車が、利用された。明治40年には38基の水車があった。
山中町にも昭和30年代まで、水車で京友禅に使う布糊を作る工場があったが、今は廃屋となっています(写真)バス停
山中上より街道を山中町に入って、初めての家の前に、私達がイメージする水車小屋が、昭和30年代まではあったそうです。
北白川仕伏町には、北白川宮の屋敷があり、宮家専用の御
殿車と呼ばれる水車小屋(精米)があり、明治五年に屋敷が移転した後も明治四十年まであった。
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志賀の山越えヒストリ36
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八月十六日、山中の極楽寺の檀家だけが送り火をする。
十日に精霊をお迎えし、十三日から十六日、午前中迄お祀りをする。
十六日の正午になると檀家の当主が、仏壇の蝋燭の火を提灯に移し、お供えした御膳の箸を軸に松明を作り、吉兵衛谷を登って山に入り鎖場をよじ登ると、平らな所ににでる。
山中の人はトウロウバと呼ぶ、地面を50センチ程、掘った窪地に、持ってきた提灯の火で松明に火を付けて、それを
トウロウバで燃やし、山から上がった煙をその家の人が手
を合わせ精霊をお見送りする。
昨日の石灯籠はやはり灯籠でした。灯が入る部分が盗まれたか、壊れたか、どちらか分からないと言うことでした。
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志賀の山越えヒストリ35
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石灯籠ような・・大きく撮った写真ありました。
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志賀の山越えヒストリ34
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ここから先は比叡山と言う所に建っている北白川仕伏町
乗願院にある役行者堂。この寺の前の山中越を進んで行く
山中町入り口(今村酸素の隣)にも役行者の祠がある。
比叡山は山伏の修験道でもあるのかなと思って、山中町で
聞くと、昭和30年代頃までは、山伏が祈っている姿を
見たことがある。熊野、大峰山に行く前にここに来る。
写真の左に写っている、石灯籠のような・・・
これが凄く気になります。何でしょうか。わかる方、返信
お願い致します。
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志賀の山越えヒストリ33
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山中小学校は明治八年、男子生生徒13人 女子生徒3人
集会場に設立されたが、その後に手狭となり、現在の児童公園と
なっている地に新築され、明治30年9月20日に
移転式が行なわれた。
写真は山中自治会館前の二宮金次郎像
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志賀の山越えヒストリ32
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明治維新の変革は、此の山中地区にも静かに侵入して来た。
明治二年廃仏毀釈の波が押し寄せる中で、日吉八王子宮が
樹下神社と改称させられている。
明治四年の廃藩置県によって、旧藩主(二条家)の手を離れると、大津県支配となり、翌五年には滋賀県となって滋賀郡第10区に編成された。
明治二十二年市町村制が施行され、滋賀村の中に包摂されることになった。
明治十四年の段階で山中村は戸数71戸 人口380人
牛馬は18頭 小荷車が44輛
傍ら茶を製し 或いは車夫となりて各地に出稼ぎ、或いは
柴 薪を京都に運送販売すると記されている。街道筋にあった山村の姿が其処にあった。
写真は樹下神社の本殿。
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志賀の山越えヒストリ31
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山中上より志賀峠へ向かう道を5分も歩けば、砂防ダムに
道は二手に分かれ、左の河床へ下りて行く道を進むこと
5分、弁財天道灯籠が二つ見えてくる。
無動寺へ続く参詣道であるが、明治 大正頃迄は弁財天信仰
が庶民の間で流行し、無動寺の弁財天堂へ多くの人々が御参りしたが、今は灯籠から先の道は、荒れて参詣道は無いらしい。
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