聖衆来迎寺
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聖衆来迎寺は信長の延暦寺焼き討ちを事前に知り、寺宝など
を琵琶湖対岸の兵主大社に船で運び、預かってもらった。
延暦寺、坂本の町は全焼したが、延暦寺と同じ天台宗の
この寺は焼かれずにすみました。
信長に可愛がられていた重臣の森可成(森蘭丸の父)は
浅井、朝倉軍3万、森可成3千が戦ったが、この寺の付近で
敗死します。この寺の住職真雄上人は亡骸を寺に葬り、墓を
作りました。このことによって聖衆来迎寺は難をのがれる
ことができました。
これらのことにより聖衆来迎寺は国宝(六道絵、15幅、
源信の「往生要集」地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天を
もとに、源信の思想を絵にした、鎌倉時代の逸品です)
建造物は4棟が重要文化財、17点の重要文化財の他に
彫刻、絵画、工芸品、書跡、古文書、指定、未指定に
かかわらず、毎年恒例の8月16日に行われる「虫干し会」
で一般公開されています。
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聖衆来迎寺
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真光寺より161号線を北に1.5km、比叡辻2丁目に
ある聖衆来迎寺です。最澄の創建と伝わり、平安時代初期に
恵心僧都源信によって延暦寺の念仏道場として中世を通じて
栄えました。
この寺の表門(写真)は、坂本城の城門が1586年に櫓門
(城門)を表門(薬医門)に構造形式を変えて移築された
ことが平成21年から24年にかけて実施された保存修理の
さいに、県教育委員会の調査によって、わかりました。
この門は国の重要文化財に指定されています。
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真光寺
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酒井、両社神社より北へ約400mのところにある真光寺
です。
この寺は最澄が法華経の説法場として創建された
梵音堂が1551年に真光寺に合併され、本尊も最澄自作と
伝わる木造地蔵菩薩半跏像(重要文化財)は端整で慈悲深い
お顔をされています。
2014年に重要文化財に指定された、銅造観音菩薩立像、
奈良時代があり、内容が濃い、小じんまりした寺です。
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坂本城 外堀跡
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坂本城は琵琶湖に突出した本丸と、中堀で囲まれた二の丸、
外堀で囲まれた三の丸からなる、琵琶湖に東面した水城で
あった。
西側外堀は南北520m、北側外堀は東西に270
m、南側外堀は東西400m、堀の幅は35mから40mで
囲まれた大きな城でした。
酒井神社と両社神社の西側に
ある細い水路が外堀(写真)があった所です。
大津城復元図によると、坂本から大津へ城郭が移転した時に
「町」もそれにともなって移転しており、両城に共通して
大間町、小唐崎町、柳町、石川町が旧町名として残っています。
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明治29年9月12日洪水の石碑
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酒井神社境内の東隅に石碑があります。琵琶湖沿岸は瀬田川
洗堰ができるまで(1905年)は毎年のように冠水してい
ました。明治29年(1896年)9月、未曾有の大雨で
大洪水に見舞われ、この付近の水位は最大3m88cmあり
ました。
石碑はもと両社辻、南東隅にあったが現在の地に移転され、
水位線が明示されていますが3m88cmには足りないなぁ
石碑が地中深く埋まっているのでしょうか。
これより以前におきた洪水の水位も表記してあります。
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酒井神社 両社神社
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霊府神社より西に100m、両社の辻に右が酒井神社、左が
両社神社、向かい合って建っています。
1620年、坂本城
主であった、浅野長政の孫で浅野長晟(ながあきら)によっ
て両社本殿は建立された。両本殿は正面が長くのびた向拝と
なっている。そのために側面からの姿が美しい、いずれも
江戸時代初期の特長をよくあらわしています。
1月6日から8日にかけて各氏子町は飾り物の餅と江戸時代
から伝承された武者人形(オダイモクといわれている)を祀
り五穀豊穣を願う、おこぼ祭りがおこなわれます。
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霊府神社
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川下り地蔵より北へ50mにある霊府神社です。この神社
付近で翁の面が1778年頃に土中から掘りだされました。
この面は尾張国中村の百姓弥助の妻が坂本に来て(1545
年頃)子供をさずかるように日吉の神に祈っていました。
「鎮宅霊府神社を祈るべし」という夢告がありました。
そこで、翁面を作り、たずさえて日吉社参りをかさね、
やがて男の子が生まれ日吉丸(のちの秀吉)と名付けました
掘り出された面が、この神社の御神体となったという、いい
伝えがあります。
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川下り地蔵
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明智塚より北へ100mにある川下り地蔵です。
元禄16年
(1703年)の社寺並びに古跡改帳には
「両社川を流れ下った地蔵をこの地に祀り安置された。
この地蔵は恵心僧都源信(日本の浄土教の祖で法然、親鸞に
影響を与えた)が作ったと伝えられている」
下りおさめの地蔵から、子供の熱病治療、下落事故の防止、
洪水鎮護などにご利益があります。
お堂の周りに置かれた石仏は、明治維新の神仏分離令で
日吉大社にあった石仏が琵琶湖に流されたものです。
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明智塚
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キーエンス横の本丸跡石碑から北へ50m、161号線を
渡った所にある明智塚です。
ここは古い小字名を「城」と
といい坂本城内と思われます。またこの塚には、明智の本家
、美濃土岐家から伝わる宝刀を築城のさいに主柱の下に
埋めた跡とか、落城の時に光秀の脇差しを、娘婿の秀満が
埋めたところであるとか、秀満の首塚とか色々と言い伝え
があります。
明智一族の悲運から、塚にさわるとたたりが
あると伝えられて、現在まで残っています。
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