山中比叡平「歴史散歩」<19> 田中伸
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聖衆来迎寺
聖衆来迎寺は信長の延暦寺焼き討ちを事前に知り、寺宝など を琵琶湖対岸の兵主大社に船で運び、預かってもらった。

延暦寺、坂本の町は全焼したが、延暦寺と同じ天台宗の この寺は焼かれずにすみました。

信長に可愛がられていた重臣の森可成(森蘭丸の父)は 浅井、朝倉軍3万、森可成3千が戦ったが、この寺の付近で 敗死します。この寺の住職真雄上人は亡骸を寺に葬り、墓を 作りました。このことによって聖衆来迎寺は難をのがれる ことができました。

これらのことにより聖衆来迎寺は国宝(六道絵、15幅、 源信の「往生要集」地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天を もとに、源信の思想を絵にした、鎌倉時代の逸品です) 建造物は4棟が重要文化財、17点の重要文化財の他に 彫刻、絵画、工芸品、書跡、古文書、指定、未指定に かかわらず、毎年恒例の8月16日に行われる「虫干し会」 で一般公開されています。


聖衆来迎寺
真光寺より161号線を北に1.5km、比叡辻2丁目に ある聖衆来迎寺です。最澄の創建と伝わり、平安時代初期に 恵心僧都源信によって延暦寺の念仏道場として中世を通じて 栄えました。

この寺の表門(写真)は、坂本城の城門が1586年に櫓門 (城門)を表門(薬医門)に構造形式を変えて移築された ことが平成21年から24年にかけて実施された保存修理の さいに、県教育委員会の調査によって、わかりました。

この門は国の重要文化財に指定されています。


真光寺
酒井、両社神社より北へ約400mのところにある真光寺 です。

この寺は最澄が法華経の説法場として創建された 梵音堂が1551年に真光寺に合併され、本尊も最澄自作と 伝わる木造地蔵菩薩半跏像(重要文化財)は端整で慈悲深い お顔をされています。

2014年に重要文化財に指定された、銅造観音菩薩立像、 奈良時代があり、内容が濃い、小じんまりした寺です。


坂本城 外堀跡
坂本城は琵琶湖に突出した本丸と、中堀で囲まれた二の丸、 外堀で囲まれた三の丸からなる、琵琶湖に東面した水城で あった。

西側外堀は南北520m、北側外堀は東西に270 m、南側外堀は東西400m、堀の幅は35mから40mで 囲まれた大きな城でした。

酒井神社と両社神社の西側に ある細い水路が外堀(写真)があった所です。

  大津城復元図によると、坂本から大津へ城郭が移転した時に 「町」もそれにともなって移転しており、両城に共通して 大間町、小唐崎町、柳町、石川町が旧町名として残っています。


明治29年9月12日洪水の石碑
酒井神社境内の東隅に石碑があります。琵琶湖沿岸は瀬田川 洗堰ができるまで(1905年)は毎年のように冠水してい ました。明治29年(1896年)9月、未曾有の大雨で 大洪水に見舞われ、この付近の水位は最大3m88cmあり ました。

石碑はもと両社辻、南東隅にあったが現在の地に移転され、 水位線が明示されていますが3m88cmには足りないなぁ 石碑が地中深く埋まっているのでしょうか。

これより以前におきた洪水の水位も表記してあります。


酒井神社 両社神社
霊府神社より西に100m、両社の辻に右が酒井神社、左が 両社神社、向かい合って建っています。

1620年、坂本城 主であった、浅野長政の孫で浅野長晟(ながあきら)によっ て両社本殿は建立された。両本殿は正面が長くのびた向拝と なっている。そのために側面からの姿が美しい、いずれも 江戸時代初期の特長をよくあらわしています。

1月6日から8日にかけて各氏子町は飾り物の餅と江戸時代 から伝承された武者人形(オダイモクといわれている)を祀 り五穀豊穣を願う、おこぼ祭りがおこなわれます。


霊府神社
川下り地蔵より北へ50mにある霊府神社です。この神社 付近で翁の面が1778年頃に土中から掘りだされました。

この面は尾張国中村の百姓弥助の妻が坂本に来て(1545 年頃)子供をさずかるように日吉の神に祈っていました。 「鎮宅霊府神社を祈るべし」という夢告がありました。 そこで、翁面を作り、たずさえて日吉社参りをかさね、 やがて男の子が生まれ日吉丸(のちの秀吉)と名付けました

掘り出された面が、この神社の御神体となったという、いい 伝えがあります。


川下り地蔵
明智塚より北へ100mにある川下り地蔵です。

元禄16年 (1703年)の社寺並びに古跡改帳には 「両社川を流れ下った地蔵をこの地に祀り安置された。 この地蔵は恵心僧都源信(日本の浄土教の祖で法然、親鸞に 影響を与えた)が作ったと伝えられている」

下りおさめの地蔵から、子供の熱病治療、下落事故の防止、 洪水鎮護などにご利益があります。

お堂の周りに置かれた石仏は、明治維新の神仏分離令で 日吉大社にあった石仏が琵琶湖に流されたものです。


明智塚
キーエンス横の本丸跡石碑から北へ50m、161号線を 渡った所にある明智塚です。

ここは古い小字名を「城」と といい坂本城内と思われます。またこの塚には、明智の本家 、美濃土岐家から伝わる宝刀を築城のさいに主柱の下に 埋めた跡とか、落城の時に光秀の脇差しを、娘婿の秀満が 埋めたところであるとか、秀満の首塚とか色々と言い伝え があります。

明智一族の悲運から、塚にさわるとたたりが あると伝えられて、現在まで残っています。





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