山中比叡平「歴史散歩」<21> 田中伸
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日吉大社 神輿収蔵庫
日吉大社境内にある神輿庫にある神輿7基(1589年)は残念 ながら、「神輿の公開は高湿度により神輿の保存に悪影響が出る ために公開を中止いたしました」 前に見た時には、これが強訴 に使われたと思い、鳥肌が立ちました。

実際は延暦寺焼き討ちで 焼失、18年後に造られた神輿ですが、司馬遼太郎は金の戦車と といった、重量五百貫、2トンです! これを僧兵が志賀越え、 白鳥越えで都の朝廷や貴族に強訴に使うこと四十数回あったそう です。

「賀茂河の水、双六に賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」 と絶対的権利者、白河法皇にいわしめた山法師(延暦寺僧兵)。

当時の日本は神仏習合といって、古来の神々の信仰は変わらぬ まま、仏教の仏様たちを神の化身として神々の信仰体型に取り込 んだのです。例えば大国主命の化身は釈迦如来。そのために僧侶 が日本古来の神々の権威をかざして朝廷などに無理難題を押しつ け強訴しました。

この当時の人々は信仰心が強くて怨霊や祟り、けがれ、などを 現代の私達には理解できないぐらい、恐れ、慄きました。 交渉ごとに神や仏を出されると逆らうことは出来なかったでしょう。


日吉大社と神猿
日吉大社、西本宮の楼門軒下四隅に棟持猿と蟇股(写真)、猿塚 、樹下宮の神輿、猿の霊石らに神の使いである神猿(まさる)は 延暦寺の僧の著書で耀天記によれば、漢字の発明者とされる古代 中国の伝説上の人物、蒼頡が神の出現前に、釈迦が日本の日吉に 神として現れて、サルの形を借りて吉凶を示すと知り 「申(さる)に示す」と意味で漢字の「神」を発明したことや、 釈迦が日吉に祀られてまもなく、サルたちが日吉に集まったこと が書かれている。

神猿には太陽神としての側面もある、「日吉」の表記が太陽に 通じサルが日の出とともに騒ぎだす性質があるために、サルと 太陽が関連付けられ。サルに太陽を抑える役目を与えられたもの といわれている。  


日吉大社と猿塚
日吉大社境内にある猿塚と呼ばれている古墳は6,7世紀に 出来た、日吉古墳群68基の一つで渡来人(京都松尾大社の祭神 大山咋神が同じで、埋葬者が秦氏の可能性も)が造った古墳で ある。

7世紀頃に坂本には大きな集落があったようだ。これらの 古墳を造った氏族が原始的な山岳信仰を背景に祭祀したのが 日吉社とみられています。

1071年に後三条天皇が日吉社に行幸してから平安京の貴族の 日吉社への参拝が盛んになり、その信仰はしだいに拡大しました

平安末期になるとその勢いが強大となり、近江国中は日吉社、 延暦寺の領地で充満するといわれるほどになっていました。


鼠神社
竹林院前にある、小さな祠が鼠神社(子神社)の由縁は白河天皇 (1074年)が子供がなかった事から修法の効験で知られた 三井寺の僧、頼豪に皇子誕生を祈らせ、願成就の暁には何なり と望みをかなえると約束した。

敦文親王が誕生したので頼豪は 三井寺の戒壇(僧が得度する所)を恩賞として願い出た。天皇は 約束を守り戒壇を建立しようとするが、延暦寺の猛反対で抗しき れずに撤回してしまいました。

頼豪は怒った。朝廷、延暦寺の仕打ちを恨んだ。そして持仏堂に こもって断食し、皇子の死を祈り、また死後は鼠となって延暦寺 をたたり、呪いの修法を続けて横死した。

皇子は4歳で亡くなり、延暦寺では無数の鼠が現れて仏像巻物を 食い荒らしたので、世間では頼豪のたたりと噂された。

延暦寺は一社を建立し頼豪の霊をまつり、その冥福を祈った。


日吉大社日吉三橋
日吉大社の境内を流れる大宮川に架けられた大宮橋、走井橋、 二宮橋はいずれも花崗岩製の反橋で1573年に豊臣秀吉が寄進 したものと伝えられています。

いずれの橋も木造形式の橋を石材 で造り、雄大で豪華なものとなっている。三橋とも重要文化財。


穴太積
遮那王大杉より東へ50m 芙蓉園入り口にある穴太石積です。 この石積みは慈覚大師の時代(800年代)に唐国のものを 模したものといわれています。比叡山延暦寺に三千の僧兵がいた 頃に城塞として作られました。

この美しい石積みは穴太の石工が 築いたもので、戦国時代以前より砦造りの専門職人でありました 織田信長、豊臣秀吉によって城郭の石垣造りに携わり、多くの城 の石垣を造りました。


遮那王大杉
日吉東照宮より北へ400mに遮那王大杉があります。 樹齢は不明、幹周り5.5m、 樹高30m、幹元には小さな 祠がお祀りしてあり、大杉名の遮那王は義経の幼少名であります

義経は平家討伐で大活躍したが、官位を受けたことが兄、頼朝の 怒りを買って追討されることになりました。この時、延暦寺の 僧に匿われています。

また弁慶も延暦寺で修行していたが、あまりの乱暴もので 延暦寺を追い出されました。このような事柄から遮那王と名が ついたのでしょう。


日吉東照宮
滋賀院より西へ300mにある日吉東照宮(重要文化財)は 1623年に天海大僧正によって創建されました。

祭神は中央に徳川家康、右に日吉大神、左に豊臣秀吉と山王 摩多羅神が祀られています。秀吉が隣に?これはどういうこと ちなみに、日光東照宮は家康、秀吉、源頼朝が祀ってあります 久能山東照宮は頼朝が外されて代わりに織田信長が、家康、 秀吉とともに祀ってある。

江戸時代は家康、日吉大神、山王摩多羅神が祀ってあったが 明治の神仏分離令の頃から、明治政府の意向で秀吉、信長、 頼朝が祀られるようになりました。

明治政府は徳川家康の御霊 を押さえ込み、徳川家が二度と皇室んに刃向かわないように するという、霊的な理由から織田信長、豊臣秀吉を祀った そうです。


慈眼堂
滋賀院の境内を南西方向へ200mにある慈眼堂です。 1646年に徳川家光の命で、天海僧正の廟所として建立 されました。木造慈眼大師坐像(重要文化財)を祀っている

徳川家康、ブレーンとして仕え、黒衣の宰相と呼ばれた天海 は法広寺の鐘事件で大阪夏の陣にも深く関わっています。 明智光秀が姿を変えた同一人物であるという説もあります。

慈眼堂には天海が高島市鵜川の石仏阿弥陀如来坐像を13体、 坂本に移したものや、桓武天皇の御骨塔、歴代天台座主の墓 などがあります。





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