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志賀の山越えヒストリ5
昭和11年6月29日 復興記念祭を樹下神社において
復興記念碑の除幕式が行われた。
追憶を新たにした。
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志賀の山越えヒストリ4
福岡県 大分県で被災された方々に対して 心より御見舞申し上げます。
私達 山中比叡平地区も 昭和10年6月29日
集中豪雨により山中町が山津波に襲われる
大惨事を経験しました。
山間部に住む私達にとって、過去を知って
明日に活かす事は、とても大切な事と思います。
写真は当時の惨事を伝える大阪朝日新聞です。
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志賀の山越え3
平安時代、志賀の山越えは 桜、紅葉の美しい景色や
山の井(現在、山中町では玉の井と呼ばれている)清水が
紀貫之、古今和歌集に詠まれたこれ以降、 西行 藤原定家
など多くの歌人に詠まれ近江の歌枕となった。
この頃は女人参詣道と言われている。
物資のルートとしても、近江 京都を結ぶ幹線に成長した
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志賀の山越えヒストリ2
786年桓武天皇が梵釈寺を建立(崇福寺の隣)
最澄が比叡山に寺を創建
794年に平安京遷都
815年嵯峨天皇が崇福寺、梵釈寺を経て唐崎に行幸
これらの事によって
志賀の山越えは崇福寺参拝ルートとして多くの人々が
利用した。
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志賀の山越えヒストリ
668年大津京があった頃志賀の山越えは 京都からの
崇福寺の参拝の道として在ったらしい
672年壬申の乱の残兵が
今の山中町に田畑を作って
村ができたと言われている。
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古今和歌集 山ノ井
紀貫之が志賀越えで立ち寄った井戸が山中町にある。
むすぶ手の しづくに濁る 山の井の あかでも人に 別れぬるかな
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志賀越えの石仏
志賀越え道と今出川通が交わる所にある
秀吉が気に入って聚楽台に移させると
毎夜 白川に戻せとうなって
もとに戻ったとか
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志賀越えの石仏
山中町 京都県境に白川に降りていく階段がある
ここを降りていくと大きな重ね石に四体彫られている
お顔は風化が激しい
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志賀越えの石仏
滋賀里の大仏の続きです
山中町 西教寺脇に有ります この間道は平安時代に
出来たそうで、石仏は鎌倉時代のものらしい
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坂本 慈眼堂
鵜川四十八体石仏のうち13体がこちらに有ります
石仏の脇の紫陽花が今が見頃です。
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榿木原遺跡(はんのきはらいせき)
山中越 西大津バイパスが交差する所にある榿木原遺跡
白鳳時代に創られた瓦窯跡。
高さ5mはある大きな登り窯にびっくり
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志賀の大仏(おぼとけ)
滋賀里、旧山中越え道沿いにある阿弥陀如来座像です。
本当に可愛いお顔をしていらっしゃいます。 このお顔で
鎌倉時代から道中の安全を見守って下さっているんですね。
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