JR大津京駅一帯 北大津遺跡
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JR大津京駅開発時に発掘された北大津遺跡です。
弥生時代後期から奈良時代までの複合遺跡で、竪穴住居跡
11棟、土壙墓(どこうぼ)3基、 溝2条の中からは
大量の弥生式土器が発掘された。
白鳳時代(大津京時代か)の5片の木簡が出土し、一漢字
文字につき仮名で漢字の読み方、意味を記した、全国でも
珍しい最古の国語辞典と言えるでしょう。
余談ですが、大津京駅の駅名を大津市は北大津の予定でしたが、地元から駅周辺が大津市の北端の印象が、よろしく
ないとの反対意見で西大津になりましたが、現在は大津京
となりました。
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皇子山1号墳
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大津市錦織1丁目にある、皇子山1号墳、古墳時代前期
4世紀後半頃に出来た滋賀県で最大最古の前方後円墳である。
全長60m、前方部幅35m、後方部幅28m、葺石で
覆われている、ミニピラミッドの姿は立派と言うしかない。
埋葬者は不明で、前方部に1基 後方部に4基の埋葬施設がある。
埋葬者は和邇氏(わにうじ)と言う説もある、中国南部
から縄文、弥生時代に日本に渡ってきた和邇氏(海人族)は海上で活動し海運で力をつけた。そして琵琶湖
でも縦横無尽に活動していたと思われる。
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近江神宮 漏刻
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漏刻とは文字どおり漏れる水で時を刻む水時計である。
初めて時を打つと日本書紀にあるように、国家による時間
の掌握が行われた。
役人の執務、行政事務の能率的で集権的な推進に欠くことのできないものであった。
これも大津京時代における律令体制の完成を考えるうえで重要なことである。
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近江神宮
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明治41年 西川太治郎大津市市長が市制施行10周年に
さいして、天智天皇奉祀神社の創立を熱望すると発表し、
翌年に帝国議会で大津宮創建請願書が採択された。
昭和12年近江神宮奉賛会が設立され、翌13年には
内務省が近江神宮創建を正式発表した。
地鎮祭は同年6月10日、延べ13万人にのぼる県民の
勤労奉仕で工事は進み、昭和15年11月7日に鎮座祭
が行われた。
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南滋賀廃寺跡
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志賀小学校の北の高台にある児童公園に南滋賀廃寺跡が
あります。直径約1.5mの礎石が今も残っています。
廃寺は南北130m 東西80mの大きさで飛鳥にある、
天智天皇が造った川原寺と同じ配置だった。
川原寺は天智天皇の母、斉明天皇の川原宮の跡地に造ら
れた。蘇我入鹿を母の目の前で倒した、大化の改新
白江村の戦いの前までを同じ思いで月日を経た、母を
弔うためと思われる。
遷都した大津宮にも、敬愛する母への想いで川原寺と同じ
寺を造ったと見られている。
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志賀小学校 南志賀1丁目5−1
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志賀小学校この近辺に大津宮の花園と呼ばれるお花畑が
ありました。現在の志賀小学校は、明治8年の学校創立
当時の校名を志賀の花園にちなみ花園学校と決めました。
平安時代の勅撰和歌集には
さざ波や志賀の花園見るたびに昔の人の心をぞ知る
と詠まれています。
志賀小学校の南西角あたりに大津宮時代に産湯の水として
使われた無垢井と呼ばれる井戸が有りましたが、今は住宅
が建ち並び、その痕跡はありません。
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陸上自衛隊大津
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昭和16年 財団法人海軍予備航空団大津支部は緊迫する
時局に対応し、新たな海軍航空機搭乗員養成するための制度の改正に応じて、この施設を献納して解散し、
大津海軍航空隊が同17年に発足した。
日本の敗戦後10月4日アメリカ第6軍第1軍団33師団が進駐軍として昭和32年まで進駐しました。
現在は陸上自衛隊大津駐屯地。
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明智左馬助 駒止めの松
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明智光秀の女婿、明智秀満は安土城の守りについていたが
本能寺の変の後、山崎の戦いで秀吉に敗れ、敗走中に
小栗栖で土民に討たれた一報を聞き、急ぎ坂本城に向かう
途中、打出浜(大津県警あたり)で秀吉軍と戦った後に
馬に乗ったまま湖中へ、浮き沈みしながら柳が崎に上陸
し、この松に繋ぎ止めたと言われています。
しかし、こんな古文書もあります。打出浜から唐崎まで
小舟でいった「秀吉亊記」。琵琶湖の渚を馬で駆け抜けた
「豊鑑」どれが史実か・・・
大津館より北に50m、市営駐車場の中です。
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