志賀の山越えヒストリ13
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1573年 磯貝久次は幕臣の身でありながら、信長に
臣従し、明智光秀に所属していたらしい。
山城の土豪山本 渡辺とともに同年2月6日足利義昭の
呼びかけに応じて 信長に反抗して今堅田に兵を入れるが
同年2月29日 明智光秀らに攻められ陥された
同年7月義昭が挙兵 一乗寺に籠もるが信長の進軍を
見て、すぐに退散して、久次は紀伊の山中に逃亡
1578年2月 吉野山中で土民に殺された。
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志賀の山越えヒストリ12
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1568年、信長は将軍足利義昭を奉じて上洛している
信長の重鎮、森可成が、宇佐山城を築き、新城に通ずる
新路を開く、志賀越の通行を禁じて新路を通行させたのが
始まりであろう。
1570年 信長は比叡山に居た。湖北の浅井長政と
越前の朝倉義景からなる連合軍の進路を阻むために
山中越の京都、山中間の封鎖を磯貝久次に命じた。
写真は。信長が作らせた、近江神宮〜山中町間を
サークルKより望む
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志賀の山越えヒストリ11
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1564年磯貝久次と立入宗継は、正親町天皇の勅使
として信長に綸旨と奉書を内密に渡すべく、道家尾張守に
取次を頼む
信長は大いに喜び、鷹狩の獲物を鴈汁、鶴を刺身に
自らの手で料理して二人に振る舞った(道家祖看記より)
信長の命令で道家(娘婿)が企て、義父、久次に相談
立入宗継(娘婿)が万里小路惟房を通して天皇に奏上
信長の考えたままの綸旨を受ける事が出来たと私は
思っています。
写真は磯貝家の菩提寺、山中町にある極楽寺 信長の
山門焼き討ちの際に兵火にかかり、1583〜1592年の間に再興している。
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陣見山
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サークルK 下鴨大津線を挟んだ前の山
山中では陣見山と呼んでいる
見張台でも在ったのか
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志賀の山越えヒストリ10
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磯貝久次の妻は吉田兼右(家柄は良い)の娘で
二人の間に娘が二人、息子が一人あった。
娘の嫁ぎ先は織田信長公三十六功臣の一人
道家尾張守
禁裏御蔵職(朝廷の金庫番)立入宗継に嫁いでいる
息子千世寿は 元服祝に明智光秀に彦四郎と名を貰った
久次の山城は山中町で奥の城と呼ばれている山頂にあった
今でも土塁や郭の後が僅かににのこつている
山中町の方に聞くと、昔 松茸山で松茸を取った後に
大人数で、すき焼きをするのに、平に掘り返した
その後かも
写真はサークルKの立て看板の、真後ろが奥の城
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志賀の山越えヒストリ9
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山中関を中心に山中の存在が浮かび上がるなかで
山中衆の中から統率者が生まれた磯貝久次である
言継ク記(1553年)に久次であろうと思われる人物が
記載されている。
東山霊山城の戦い(三好長慶と足利義輝)三好は2万5千
の軍で都に入った、義輝は船岡山に、城には、松田監物
醍醐三宝院衆 磯貝久次が残った
戦いはすぐに終わった。城は焼かれ、三好軍は5,6人
の死者 負傷者15,6人 足利軍側は松田監物、自害
三宝院衆に負傷者、磯貝久次軍の事は、書かれていない
義輝は逃亡し、5年の歳月を朽木に身を置いた。
写真は清水三年坂から霊山を見る
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