高穴穂宮跡石碑
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高穴穂神社、本殿の奥100mに「高穴穂宮跡」と書かれた石碑があります。東郷平八郎元帥の書で大正十五年十月に建てられました。
景行天皇の偉業を顕彰するために大正九年に高穴穂宮顕彰会がつくられ、石碑の建設、本殿の改築、神苑の拡張が計画され、県知事のもとで行われました。
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高穴穂神社
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穴太1丁目にある高穴穂神社の祭神は景行天皇ですが、神社の伝承、古事記、日本書紀によると2000年前に大和よりこの地に景行天皇(日本武尊の父)によって遷都されました。高穴穂宮は景行天皇、成務天皇、仲哀天皇の三代にわたる近江王朝がありました。
景行天皇の命令で日本武尊(やまとたける)は蝦夷征伐に行く途中に伊勢神宮で叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)三種の神器の一つを授かり、列島全体をほぼ勢力圏に入れたが景行40年、病で三重県亀山市で崩御されます。
その後、北九州の熊襲の反乱を知り仲哀天皇(日本武尊の息子)と神功皇后は熊襲征伐に遠征しますが、仲哀天皇は亡くなります。皇太后は朝鮮半島に遠征し勝利、戦利品と幼い皇子を連れて畿内に凱旋しました。
仲哀天皇の別の皇子が跡目争いで宇治、逢坂山で衝突したが、神功皇后が戦いに勝利して、宮廷を大和に移します。
この事がなければ、高穴穂宮が日本統一の最初の首都になっていたのに残念です。
また滋賀県、大津市が神話扱いで発掘調査も行われていないと聞いています。歴史学者が史実とは違うと言っても、地元くらいは古事記、日本書紀に伝承されているのを、もっと大事にして欲しいと思います。
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足利義晴の供養塔
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穴太2丁目18にある足利幕府12代将軍足利義晴の供養塔、地蔵堂の後ろです。
義晴は京都奪回のために銀閣寺の裏山、大文字山に中尾城の築城を始める、この城は普及し始めた鉄砲の対策に石や砂利での防御壁作りを、義晴自身が指示していました。
城を作り始めた頃から、病がちになり、1550年に、この地、穴太で悪性の水腫で城の完成を見ずに死亡した。
政争で京都を度々追われ、近江八幡市安土町、桑実寺に佐々木六角の擁護で3年間幕府を置くが、それからも、近江と京都を行ったり来たり、京の都の奪回を夢見た苦労人
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穴太遺跡 穴太廃寺跡
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大津市穴太2丁目にある穴太遺跡、穴太廃寺跡です。
縄文時代後期の竪穴式住居、弥生時代中期の土壙墓弥生時代後期から古墳時代初期の溝状遺構、古墳時代後期から飛鳥時代にかけての、切妻大壁造り住居白鳳時代から奈良、平安時代初期の掘立柱建物瓦窯跡、
白鳳時代の金堂、塔を回廊がとりまく川原寺式伽藍配置をもつ穴太廃寺、小金堂の大きさは東西12m南北14mであるが、寺の規模については、わかっていない、郡衙(ぐんが)と呼ばれる官庁役所が建てられていた。大津宮があった頃から穴太も大きく変わって行きました。
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坂本六地蔵 苗鹿地蔵
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大津市苗鹿2丁目7−11にある法光寺境内にある苗鹿地蔵(のうかじぞう)、昔は街道沿いにあったのですが、大名が馬に乗ったまま地蔵の前を通過した時に、大名はすべり落ちました。これ以後どの大名もすべり落ちる事から法光寺境内に移転されまました。
この事からすべり地蔵と呼ばれ、足、腰にご利益があるそうです。
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坂本六地蔵 阿波羅屋地蔵
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坂本平和堂店、駐車場入り口、北東にある阿波羅屋地蔵、下の病、夜尿症 子供のかんの虫にご利益があるそうです。
大日如来の御真言で「あらしゃな」が転じて、いつしか「あばらや」になったそうです。
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坂本六地蔵 早尾地蔵
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日吉大社入り口近くにある六角堂が坂本六地蔵の一つ、早尾地蔵です。かくれんぼ地蔵、子育て地蔵とも呼ばれ、頭の病、安産、子授けにご利益があるそうです。
西教寺を開いた真盛上人が産まれると、この地蔵の姿が見えなくなり、真盛上人が亡くなられると、お堂に帰っておられた事から真盛上人は地蔵の生身であると言い伝えがある
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坂本六地蔵 明良地蔵(あきらじ...
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下阪本3丁目、京阪坂本駅より南に150mにある明良地蔵(あきらじぞう)です。坂本らしい街の雰囲気に建っている地蔵堂、胸、胃腸の病にご利益があると言われています。
最澄の自作、地蔵菩薩です。
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