山中比叡平「歴史散歩」<12> 田中伸
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車石
江戸時代1804年に大津八丁から三条大橋までの三里(約10km)を花崗岩を敷き牛車専用の道を2年で造った公共事業です。

車石についての研究者が4名こられていました。色々と話を聞き、「轍は造ったものですか?」と尋ねると「最近までは造ったものと考えていましたが、今では自然に出来たと考えています」又「車石は往復あったのですか?」「いいえ、これ一本です、午前中は大津から京都へ、午後は京都から大津と決まっていました」

車は木製で小石が多くめり込んで、ヤスリのようになって花崗岩に深さ10cmの轍を造ったそうです。当時の往来の多さがうかがえました。

歴史博物館の東30m


新羅善神堂
園城寺鎮守社の一つで1347年に足利尊氏が再建、山内で最古の建築物(国宝)です。堂内には智証大師が唐へ留学した帰りに嵐にあい、そこへ新羅の神である新羅明神が現れて救われたことから、園城寺の守り神として祀ったのが始まりといわれている。新羅明神像は国の重要文化財である。

父、源頼義は早くから園城寺に帰依しており、三男、源義光を新羅明神で元服させ、名を新羅三郎義光とした。長男、義家を石清水八幡宮で元服させ、名を八幡太郎とした 次男、義綱は賀茂神社で元服させ、名を賀茂次郎とした。

弘文天皇陵から北へ


弘文天皇陵
大津京の天智天皇から受け継いだ大友皇子は、壬申の乱で叔父の大海人皇子と戦って敗死したのは山前と日本書紀に書かれているが、これが長等山の「前」であったかは,わからない。

大友皇子の陵墓は江戸時代から国学者によって議論されたが、亀塚古墳が明治10年に弘文天皇陵として滋賀県権令の上申によって比定された。

大友皇子は明治3年に弘文天皇に認定されたが、天智天皇が崩御された後に即位されていたかは、わからない。

大津市役所の西側。


アーネスト・フェノロサ
園城寺法明院に墓があるフェノロサ、この寺の風光を愛しロンドンで死去するも、彼の遺言で、この地に葬られた。

廃仏毀釈で仏像を破壊し古寺は廃材、寺宝、浮世絵が古美術商店に並んでいても誰も見向きもしなかった時代にフェノロサは日本文化、美術をこよなく愛した。

能を習い 茶室に滞在 改宗して仏教徒にまでなりました。

岡倉天心を助手に古寺調査は国宝誕生のきっかけとなり、日本政府に美術の収納施設、帝国博物館の設立を訴えた。美大開校に奔走して、自身は副校長に天心が校長になった。


皇子が丘公園 皇子山ハイツ
昭和20年、現在の皇子が丘公園に皇子山ハイツと呼ばれる、アメリカ進駐軍将校用家族住宅が建てられた。

昭和31年、僕が小学校2年生の頃、現在の京都植物園には将校用家族住宅が広大な敷地に、わずか100戸が建っていました。一般人は絶対に入ることが出来ないアメリカ進駐軍地に2年生の子供が中に入ることが出来ました。

それは、僕の家の3軒隣に村田運送店がありました。従業員のヨッちゃんには、すごく可愛がられて、小学校高学年の時に大谷大学のグラウンドでバタバタ(ダイハツ クロガネオート三輪)の運転をさせてもらった思い出があります。

ヨッチやんが「キャンプに配達、あるけど付いて来る」「行く!」この頃はバタバタに乗せてもらうことが嬉しくて楽しくて、5分でキャンプゲートに、2人のMPがライフル銃を持っている、2年生の僕は「恐!恐い!こんなんやったら、付いて、きいひんのに」と思い最高の恐怖を体験した。

キャンプの中に入ると、綺麗に刈り取られた芝生が敷き詰められ、大きな花壇、木立から吹く風、プールそして白い壁、緑の屋根の平屋の豪邸の中に入ると、「気持ちがいい、涼しい、今は夏やのに」田中少年はクーラーを知りませんでした。

この家には僕と同年代か少し年下の男の子がいました。僕との身なりの違いは、まさに雲泥の差むこうは雲の上の人、僕は泥だらけでした。この頃の日本はまだまだ貧しかった。服、靴下のつぎあては当たり前。冬になると青鼻すすって袖で拭き、手にはアカギレ足にシモヤケ顔にはハタケをつくっていた。アメリカと全然、違う何これと思わせた小学校で1番の思い出です。


大津陸軍少年飛行兵学校 若鷲の...
市立市民文化会館の庭に碑があり、この地に昭和18年4月に大津陸軍少年飛行兵学校が開校された。

太平洋戦争が苛烈となり、戦域も拡大していく状況の中で15歳 16歳の少年が1年間の課程で学力、基礎訓練を終えたあと、各地の飛行兵学校に入学させ各航空隊へ配属する兵員養成コースがつくられた。


皇子が丘公園 軍事施設射撃訓練...
大津市役所、大津商業高校、皇子が丘公園、皇子山スポーツ施設が現在ある所に明治6年、大津兵営と練兵場が出来た。同8年から大正14年まで陸軍歩兵第9連隊が駐屯する。

この連隊はこう歌われていた。またも負けたか8連隊、それでは勲章9連隊(くれんたい)ゴロ合わせです。そんなに、弱くなかったらしいのに、なぜこのように歌われたのか?

昭和19年12月6日 レイテ和合作戦、ブラウエン飛行場を奪回すると見えたがアメリカ軍の反撃で壊滅する。

私の父親もレイテ島の戦いに参加しておりました。毎年の戦友会に出かける姿は楽しそうに、自宅に帰っても戦友の話をあいつは、ああだ、こうだと話して来れました。

父が亡くなる十数年前に戦友のお骨をひらいに行くと、私が「どこに行くの」と尋ねると「フィリピンのレイテ島」この時、初めてレイテ島を知りました。戦争の事は一言も語らず、私には戦友会、前後の父の嬉しそな顔だけが残っています。歴史散歩の下調べで知りました。

悲惨な戦いでした。師団によっては餓死も多い・・
日本軍86006名  戦死者79261名 合掌


日本の岩場100 千石岩
皇子が丘公園から西側の山を見ると樹々の間から巨岩が見えるこの巨岩は神々が宿った磐境(いわさか)との説もあるが、その名の由来は、巨岩の姿が俵千石を積み上げたようだとも、岩の表面積が俵千石を並べられるだけの広さがあるとも言われている。

大昔、琵琶湖が今よりずっと広かった頃、この岩に千石船を繋いでいたからとの言い伝えもある。

山渓のフリークライミング日本の岩場100にも選ばれて いる。





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