滋賀院門跡
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妙行院より南へ200mに在る滋賀院門跡です。
この寺は
1615年に徳川家康に仕え、黒衣の宰相と呼ばれた南光坊
天海が後陽成天皇から下賜された、京都北白川にあった
法勝寺を現在の地に移し、のち後水尾天皇から滋賀院の号を
賜わりました。
江戸時代末まで天台座主となった皇族代々の
居所であったため高い格式を誇った。
坂本には穴太積みの石垣
が見事な里坊が多く残っているが、中でも滋賀院門跡は
ひときわ背の高い石垣と白壁に囲まれた、延暦寺の本坊らし
い堂々とした外構えを見せています。
滋賀院御殿と呼ばれた
長大な建物は1878年に火災により焼失して、比叡山
無動谷法曼院の建物3棟が移築されました。
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妙行院 頬焼地蔵
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幸塚より道を挟んで南隣の妙行院にある木造地蔵(重文)は
昔、横川の般若谷にあった地蔵で、鎌倉時代の「宇治拾遺
物語」や「元亨釈書」に書かれている。
昔、賀能という猟師
がいた。ある日、般若谷でにわか雨にあい、近くに在った
お堂で雨宿りをすることにしました。荒れて雨漏りが激しく
本尊の地蔵尊も雨ざらしとなっていました。気の毒に思った
賀能は、かぶっていた笠を地蔵尊にかぶせてやりました。
歳月は流れ、年老いた賀能は病気で亡くなりました。殺生を
業としていた為に地獄へ落ちて、猛火にその身を焼かれる
ことになった。
その時一人の僧侶が現れて、右手をさし出して救ってくれた
その僧侶は右側の腕、肩、右頬、足まで黒焦げとなっていた。
その僧侶が「私は般若谷の地蔵である、かってお前は雨ざらし
の時に笠をはぶせて来れた。その志に報いるために、お前を
助けた」といって消えていった。
そして、気がつくと賀能は生き返っていました。急いで
般若谷のお堂へ礼拝に行くとお地蔵様は、右半身が焼け焦げ
て、地獄で見たお姿とそっくりだった。
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幸塚
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大文字屋地蔵より西に200m、この幸塚は三津首広野の
胞衣(最澄の胎盤)が埋まっているといわれています。
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大文字屋地蔵
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生源寺より南西に200mある大文字屋地蔵
この地蔵は
比叡山中学校の敷地内にあった寺が、火事で焼失し
大文字屋の、なん代か前の主人が、廃寺となった跡から
立派な石の地蔵を見つけて、お堂を建てて、お祀りしました。
延命地蔵と呼ばれている。
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生源寺
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市殿神社の隣に生源寺があります。ここは最澄の生誕の地と
いわれ、山門を入り右側奥に最澄が産湯に使ったといわれて
いる井戸が残されている。
最澄は両親報恩のために800年頃に東南寺と共に生源寺を
創建したといわれている。
また、信長焼き討ちの際に、信長軍を見た住民が異変を知ら
せるために鐘を何度も強く打ったために鐘にヒビが入り
変わった音が鳴るようになりました。現在この鐘は「破鐘」
といわれて、JR坂本駅前の坂本石積みの郷公園にあります。
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市殿神社
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百枝天満宮より南へ200mにある市殿神社の祭神は最澄の
母、藤原妙徳が祀られている。
藤原藤子は山城の国、山ノ内
生まれ、父は藤原鷲取、母は宇気合田早良女。祖先は
藤原鎌足とされています。
坂本より延暦寺に行く参道本坂を30分登った、ところに
花摘堂跡の碑があります。
ここは最澄の母が大師に会いに来るが、これより先は
女人禁制で進めず、大師はここまで降りて来られ母と
会っていました。
後に智証大師が悲母を偲んで三宮を
建てました。その後4月8日の釈迦降誕会だけ、女性が花を
供えてお参りするようになり花摘堂と呼ばれました。
花摘堂は崩壊して、市殿神社として現在の地にあります。
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百枝天満宮
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日吉茶園より北へ400mにある。百枝天満宮(ももえてん
まんぐう)、百枝は最澄の父親である。
後漢孝献帝の末裔で
200年から300年頃に渡来し応神天皇に近江国滋賀郡の
地と三津首(みつのおびと)の名を賜りました。
この名の三津首とは三津浜(今津、戸津、志津)から坂本
までの「首」(かばね、土地の管理者、今だと町長)でした。
父の三津首百枝は敬虔な仏教徒であったが子がなかった
そこで、八王子山の西、大宮川近くの山中に草庵を結び、
男子出生を仏に願った、かいあって767年に三津首広野(
最澄)が生まれました。
これらに対して正倉院文書には最澄の戸籍は坂本となって
いない。滋賀郡古市郷(膳所の南)三津首淨足(きよたり)
の家族となっていました。
百枝天満宮は左の社に百枝が祀られ、右の社は菅原道真が
祀られています。
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日吉茶園
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御田神社より西に50m行くと日吉茶園がある。805年に
最澄、空海が茶の種を中国より持ち帰った。最澄は帰国後に
比叡山延暦寺を建て、茶の種は坂本山麓に植えました。
日本書紀には志賀越にあった、梵釈寺にて僧正「永忠」が
嵯峨天皇に茶を煎じて飲ませた、日本で初めて喫茶のこと
が書かれている。
貴族、僧侶等に茶は広まって行ったが
遣唐使の廃止ともなって、茶は次第に衰退していった。
1191年、栄西は茶の種を持ち帰り、筑前、背振山に
植えました。
博多の聖徳寺、筑後の千光寺に植え、これが
茶の源流と考えられ栄西を「茶祖」と呼ぶ、栄西は明恵上人
に茶の種を贈り、明恵は京都栂尾高山寺に(世界遺産)植え、
明恵が宇治に移植したものが、今の宇治茶です。
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御田神社 綱引き
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石占井神社より西に300mにある御田神社は1月15日
に「綱引き」という神事がおこなわれる。
氏子がワラを持って神社に集まり、このワラで「縄縫い」と
と呼ばれる、長さ12間(22m』の大蛇を氏子、皆で作り
ます。大蛇の頭を西方に向けて神社前の道路に引き摺り出し
ます。
氏子は東西に分かれて、3回、綱引きが行われて
3回目の綱引きで勝敗を決める。東が勝てば豊作、
西が勝てば不作といって、その年の豊凶を占う
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石占井神社
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聖衆来迎寺から西に700m、坂本3丁目16にある
石占井神社(いしらいじんじゃ)です。
大津宮があった
7世紀後半、坂本八条には大きな寺院があったようです。
この神社の石垣の一部に礎石が残り、軒丸瓦も出土
しました。また近くに郡園、倉園両神社の名称から
滋賀郡衙(役所)とも考えられています。
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