志賀の山越えヒストリ22
|
この絵図ですが、恵心の作 四佛(右のページ上部)が石のようなものに、上下の石それぞれ別に二体ずつ
彫られ、描かれていますが山中町にある、重ね石の四佛は上下、分かれている、上の石に四体彫られている所は違うのですが、この恵心が凄い
今、奈良国立博物館で千年忌特別展 源信をやっています
延暦寺の高僧で、極楽浄土を解いたことで法然、親鸞に
影響を与えた。
山中町、西教寺が刊行した本に別人を恵心の作と書くで
しょうかね。宗教者として、それは、やめて欲しい
もしも恵心僧都源信の作であれば、重文か国宝級
絵図に描かれているのは、重ね石では、ないかもしれない
夢は広がります
|
|
志賀の山越えヒストリ21
|
山中町で取材で見せて頂いた、無動山西教寺略縁記、
刊行年代不明 原本は大原古文書研究会にあるそうです
京都から山中町西教寺までの絵図と西教寺の由来と最澄
二条殿近臣 大塚若狭守 蓮如上人の事が書かれていました。
|
|
志賀の山越えヒストリ20
|
新兵衛茶屋の前に建てられた高札には、こう書かれていた
きりしたん宗門は累年御制禁たり。自然不審成る者これあれば申し出すべし。御ほうびとして
ばてれんの訴人(宣教師) 銀500枚
いるまん訴人(宣教師の下の者) 銀300枚
立ち返りの者(信仰を捨て再び信仰を取り戻した者)同断
同宿並びに宗門の訴人 銀100枚
右の通り下さるべし。たとひ同宿、宗門の内たりというとも、申し出ずる品により銀500枚下さるべし。密かに置き他所にあらはるるにおいては、其の所の名主並びに
5人組迄一類共々罪科に断ぜらる可き者なり。
正徳元年5月日 奉行
裏面 江州滋賀郡 山中村 (山中自治会館 所蔵)
銀500枚は833500円
|
|
志賀の山越えヒストリ19
|
17世紀前半に刊行された毛吹草には、早くも志賀山中の名産として、大根、袖解餅をあげており袖解餅は江戸を
通じて山中の茶屋(新兵衛茶屋であろう)が売り出す名物ともなった。
ちなみに長命寺の茶屋で売られていた。
桜餅 4文 今の貨幣価値で66円
冷や水 4文 これも66円位だった。
|
|
志賀の山越えヒストリ18
|
1711年 山中の新兵衛茶屋の前にキリシタン御禁の
高札が京都町奉行の名によって建てられた。
新兵衛茶屋は山中越の街道に面した茶店である
写真は昭和頃に撮られたものと思われます。
|
|
志賀の山越えヒストリ17
|
1571年 信長が山門焼き討ちをした時の古戦場の一つ
が近江国滋賀郡誌に武士ケ谷と記載されている。
位置は比叡平団地の北方、サークルKからドライブウェイまでの、谷筋あたりかと思われます。
山中町には武士ケ谷、陣見山、陣見谷、奥の城と
戦にまつわる地名が多い
写真は武士ケ谷と思われる所です。
|
|
志賀の山越えヒストリ16
|
1634年 近江国石高帳に山中村が二条家の領地と
書かれている。公家で五摂関の一つである。二条家の石高
は1600石で山中村は180石を課せられていた。
山中村は現在のお金にすると180石×7万5千円=1千
3百50万円、今と比べて如何ですか
1661年 この頃、二条康道が山中村に隠栖し
近臣、隠岐集が樹下神社のお弓行事(樹下神社の鳥居脇に大蛇に見立てた縄が張られ、鬼と書いた的に弓取り役の二人が矢を射ります。
その後、大蛇の縄で子どもたちによる綱引き行事が行われます。この祭は市の無形文化財に指定されています)を再興してます。
写真は樹下神社、大鳥居
|
|
志賀の山越えヒストリ15
|
1583年 新左衛門(磯貝久次)の息子、彦四郎は
6月秀吉により山中への帰郷とその支配を許された。7月に奉行として、山中越の普請が命ぜられた。
久次が山中を追われて10年間の支配者は、明智光秀
家臣 磯谷新介である。新介は山中領主 磯谷一族であった。明智家臣団の中に、磯貝久次、磯谷小四郎(一族)
の名が記載されている。
これはどう考えればいいのでしょうか?
写真は極楽寺の石仏群
|
|
志賀の山越えヒストリ14
|
信長がおこなった路の整備は三間道路に拡張するのは勿論
領地が拡大して行くにに連れて
これまであった軍事的に重要な又、通行税を課す関所を
無くし、戦国時代には考えられなかった、物流、文化の交流のために、橋を架けた。
山中越の整備は山中郷が材木を白川郷の人々を使って
2月16日開始2月27日で整備を終えた(1575年)
3月3日この路を使って上洛している
翌年、安土城に居城おり専ら安土、坂本間は、水路
陸路は山中越を使って上洛している
|